山猫 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
滅びの美学
滅びゆく者
ヴィスコンティの歴史観=人生観
シチリアの歴史
1860年5月
ガリバルディのシチリア遠征
侯爵の浮気心
タンクレーディ
未来を夢見る者
リソルジメントの現実
避暑地ドンナフガータで
新たなエリート
タンクレーディの恋と打算
投票結果の欺瞞
タンクレーディの婚約
カロージェロの評判
タンクレーディの凱旋
タンクレーディの野心
おお、ヴィスコンティ!
滅びの美学
上院議員就任の拒絶
夜会の舞踏会
黄昏を見つめて
《山猫》へのオマージュ
シチリア史の特異性

カロージェロの評判

  サリーナ公爵は、甥の後見人としてアンジェーリカとの婚約の仲介のために動く前に、カロージェロの人物像とかセダーラ家についての情報を得ようとした。そのために、ドンナフガータの住民について幅広い知識と辛辣な評価者としての目を持っている、ドン・チッチョ・トゥメーオの意見を聞くことにした。
  チッチョ・トゥメーオは、サリーナ家の所領にある聖母教会のオルガン弾きで、ファブリーツィオの忠実な従者であり、狩猟仲間だった。ファブリーツィオはチッチョを狩猟に誘い、道々カロージェロやセダーラ家について尋ねた。そこから、次のようなことがわかった。
  カロージェロは貧農の倅で、若い頃、これまた貧しい小作農の娘と駆け落ちした。それが、彼の妻である。その妻はものすごい美貌だが、教養のかけらもない粗暴な父親に育てられてために、文字も読めないし、他人との礼儀をわきまえた付き合いや挨拶もろくにできないらしい。
  で、妻の美貌を(さらに洗練させて)受け継いだ娘、アンジェーリカを彼なりのやり方で、金持ちの「お嬢様」として育て教育を施した。そして、村の実力者、新興成金としての社交の場には、アンジェーリカを同伴するようにしているらしい。それはまた、上流階級の若者たちに、娘の美貌を売り込み、しかるべき名門家門に嫁がせる機会を狙うものでもあった。

  アンジェーリカの両親の出自が「卑しい」という評判が広がっていることについて、ファブリーツィオは軽い衝撃を覚えた。だが、タンクレーディが自分の野心を実現するために、いまやシチリア屈指の資産家の富を手に入れる必要があることも理解した。自分の家門、サリーナ公爵家の祖先たちも、どこかで成り上がって富や地位=権力を得たという歴史を考えれば、むべなるかな、と。

  やがて、ドン・ファブリーツィオはセダーラ家を訪問し、ドン・カロージェロにタンクレーディのアンジェーリカへの愛と結婚の申し入れを伝えた。カロージェロがもったいぶりながらも喜んで受け入れたことは言うまでもない。しかし、サリーナ公爵は、カロージェロの自慢話にこれまた軽い衝撃を覚えた。
  新王権から叙爵され男爵の地位を認められたというのだ。カロージェロは、シチリアでのリソルジメントへの資金協力もさることながら、おそらくは統一イタリアの新王権にも巨額の献金をしたのであろう。カロージェロはいまや貴族の称号さえ手に入れ、ゆくゆくは中央議会の下院議員選挙に出馬するつもりだという。
  暑苦しいほどの上昇志向、権力欲に、一方では軽い軽蔑を覚えたが、他方ではそのエネルギーに賞賛の念を禁じえなかった。自分たち旧い貴族たちには失われつつあるものだと。

タンクレーディの凱旋

  ドン・ファブリーツィオからセダーラ家が婚約の申し入れを受け入れたことを知らされたタンクレーディは、翌月、勝利した新政権軍のエリート将校としてドンナフガータに帰還した。サリーナ公爵家のパラッツォを訪れたタンクレーディは、イタリア王国軍の制服を身につけ、同僚として、ロンバルイディーアの名門貴族(伯爵)の若者をともなっていた。やはり長身、金髪の美青年だった。タンクレーディは、その伯爵をコンチェッタに引き合わせようと思っていた。
  だが、コンチェッタはタンクレーディへの失恋の衝撃によって、ほかのいっさいの若い男性への関心を封じ込めていた。だから、その美男の伯爵は、コンチェッタから冷たい反応=仕打ちを受けることになった。
  一方、タンクレーディはアンジェーリカと正式の婚約を取り結び、彼女と熱烈な恋愛ゲイムを演じることになった。
  2人は、サリーナ公爵家の広壮な(ホールや部屋が70以上もある巨大な)城館のなかを、まるで迷路遊びと宝探しをするように探検しながら、追いかけ合い、抱き合い、口づけを交わしあった。

  そのシーンは、大富豪の侯爵家に生まれ育ったヴィスコンティならではの審美眼と美意識、歴史観がいかんなく表出されている。それについては、項を改めて述べることにする。

  さて、サヴォイア公=サルデーニャ公=ピエモンテ王=イタリア王権のもとでイタリア半島は国民国家へと統合されることになった。
  しかし、イタリア半島は、ミラーノやヴェネツィア、フィレンツェ、教皇領などをはじめとする多数の公国が分立・対抗し、しかも、北部の大半にはオーストリア皇帝の支配や優越がおよんでいた。北部の半分は統合を拒んでいた。
  オーストリア帝国はこれまた多数の王国や公国などの寄せ集めでしかなく、国民国家をなしてはいなかった。そのため、各王国や諸公国、諸都市の自立性が大幅に認められていた。ところが、イタリア王国への統合とはピエモンテ王権への服従を意味するがゆえに、諸侯国や諸都市は統合を拒否するのは当然だった。
  ピエモンテ王は、長らくフランスの覇権のもとで呻吟していたが、サヴォイアとニースの割譲という代償と引き換えに、ようやくフランスによる全面的統制から離脱して、独自の国家形成政策をすすめるフリーハンドを得た。フランスとしては新イタリア王権がオーストリアへの対抗勢力として成長することを期待していた。
  イタリア国民国家の形成過程は、まさにこのような政治的・軍事的環境のもとで、数え切れないほどの困難・障害に打ちのめされながら進むことになった。
  タンクレーディたちが、正規の王軍に編合されてから、ローマ以北で展開された軍事活動のために転戦しなければならなかったのは、新王権による形ばかりの統合の綻びを取り繕う――各地の反乱や抵抗を封じ込める――ためだった。

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