さて、私としてはヴィスコンティの歴史映画を語らずして、このサイトの存在意義はないというくらいに思っているのだが、この作品はどう扱っていいのか難しい。結局のところ、イタリア史の1断片を描くという視座で取り上げた。
ただし、イタリア史としても、リソルジメントの最終局面である〈ローマの統合〉――独立の王国をなしていたローマ教皇領をイタリア王国に編合するにさいしては、かなりの利害対立や紛糾があった――については、映画が扱っていないので、ここでも記事にしなかった。
かつてはヨーロッパ世界を普遍的に支配するローマ教会権力の中枢=ヴァティカンを単一の国民国家に統合するという意味では、すこぶる興味深い事件なのだが、まだ私の準備不足で叙述できない。
イタリアの歴史はずいぶんと魅力的なのだが、重層的で認識が面倒そうだ。それは都市の表情や構造に刻み込まれている。2000年分の歴史が重層・重畳している地層の断面のような構造というか雰囲気を持つのが、イタリアの古い街並みなのだ。で、たとえば、NHKのBSの「世界街歩きシリーズ」でイタリアの都市を取り上げると、思わず見入ってしまう。
さてそこでヴィスコンティの映画作品なのだが、そこには1つひとつのシーンにそういう歴史の奥行き=厚みがたたみこまれているではないか。まさに歴史空間と歴史の空気が画面に取り込まれているようだ。絵画の消失点遠近法や大気遠近法に比すべき〈歴史遠近法〉ともいうべき、独特の手法だ。
ヴィスコンティが半ば自らを投影するように、リソルジメント期のシチリアの時代状況を描き出すためには、抑制された視点で書かれたこの原作がぴったりだったのかもしれない。現実から一歩も二歩も退いたところに身を置くファブリーツィオを主人公とする人物設定そのものが、「歴史の進歩」という価値観にシニカルな視点を提示している。
やはり、退廃・退嬰あるいは滅びの美学で歴史を描かせるならヴィスコンティだ。
ところで、このほぼ同じ時代のシチリアを描いた映画作品に、原作:
Federico de Roberto の《 I Viceré 》をもとにした《副王家の一族》がある。こちらも、シニカルに突き放した歴史的視点からリソルジメント期のシチリアを描いている。有力貴族の家門、ウツェーダ公爵家父子二代間の愛憎と相克を中心に描いている。
そして、背景には、リソルジメント運動をつうじてのイタリアの国民的統合、国民国家の形成の過程がある。
ただし、場所はパレルモとはほぼ反対側のカターニャ地方。
話の内容は、かなりおぞましい。醜悪とさえいえる。が、リアリズムに徹しているともいえる。
しかも、人物設定はかなり対照的である。
主人公、コンサールヴォの父親、ジャコーモ・ディ・ウツェーダ(公爵)は、偏狭蒙眛な迷信や偏頗な信仰心に凝り固まっていて、科学者であるサリーナ公爵とは正反対。権力欲や傲岸さを隠さないところも。
ところが、イタリア国民国家の形成のゆくえやシチリアの将来に関する見方は、そっくりである。きわめてシニカルだ。この作品についても取り上げる予定だ。
というのも、《山猫》とのコントラストにおいて考察しないと、インパクトがないから。そして、イタリア南部の歴史を描くためにも。