2年後、1862年11月。アンジェーリカの上流社交界へのデビューの機会がめぐってきた。
シチリアの熱暑の夏がようやく過ぎようとする頃から、パレルモでは上流社会での夜会シーズンが始まるという。有力貴族の誰彼が自分の城館を舞台として夜会(夜の10時過ぎから始まって翌朝まで続く、徹夜の舞踏会)を主催するのだ。それは、18世紀の終わりごろから伝統化した貴族階級の権勢の誇示の場であり、それぞれの家門の若い後継者たちを上流社交界(
high-society )にデビューさせるための場でもあった。
有力家門の面々は、多少体調が悪くてもそういう社交の場には出向かねばならないし、新たにに成り上がった者たちは、夜会を主催する有力者からの招待を期待した。
今回は、モンテレオーネ公爵家で催されることになっていた。その頃、パレルモでは最も格式が高いという声望を得ている夜会だった。もちろん、サリーナ公爵家の家族も招待された。
ドン・ファブリーツィオと妻のマリーア・ステッラは、この舞踏会をタンクレーディとその将来の花嫁、アンジェーリカのカップルのデビューの場にしようと考えていた。そのため、ステッラはセダーラ家の当主(カロージェロ)と娘に対して主催者(マルゲリータ・モンテレオーネ公爵夫人)からの招待状が送られるように事前の根回しをしなければならなかった。
タンクレーディは、アンジェーリカに対しては貴族の館のなかでの立ち振る舞いとか、有力貴族やその家族への接し方、言葉づかいなどをみっちり教育していた。物怖じしないように、けれども尊大不遜に見えないような態度を。
とはいえ、父親カロージェロへの教育は、正直なところ、かなりに手遅れになっていた。それでも、この日のために用意した衣裳(フロックコート・スーツ)だけは、余りに無様にならないように一流の生地を用意して一流の仕立屋に注文させた。とはいえ、そもそも姿勢や着こなしはなっていなかったので、カロージェロの服装は幾分、茶番めいた雰囲気は否めなかった。
だが、カロージェロ本人は、何しろ最有力の貴族家門からの招待ということですっかり舞い上がっていた。だから、着衣と立ち振る舞いはなおのことぎこちなかった。カロージェロ自身は、自分の見栄えを少しでも引き立てようと、イタリア国王から授与された十字勲章を胸に飾ってきた。だが、屋敷に入る寸前に、タンクレーディによって、十字勲章はもぎ取られた。
上流貴族の集まりに十字勲章をつけていくのは、それこそ底の浅い成り上がり者であることを自ら言いふらすような猿芝居だったからだ。こういう場所では、自らの威厳を示す道具や装飾品を誇示するのは、大いなる恥とされたからだ。
むしろ謙虚さこそ誇示すべき態度であって、しかも立ち振る舞いや会話のなかで披歴する知識蘊蓄やウィットやユーモアこそが、金と手間と育ちの良さを顕示する武器だからだ。貴族とその家族は、そういうインナーサークルのプロトコルや暗黙の約束事を互いに確認し合いあながら、新参者の品定め(粗さがし)や成り上がり者の底の浅さを心のなかで揶揄することに陰湿な快感や優越感を覚えるのかもしれない。
もちろん、侮蔑を上品な笑顔で隠すのを忘れない。
さて、美貌のアンジェーリカは、将来のファルコネーリ公爵夫人たるべき貴婦人としてのデビューを無難に果たした。舞踏が始まると、たくさんの青年貴族たちが踊りのパートナーを申し込もうとして彼女の周りに殺到した。が、彼女がタンクレーディの婚約者だと知ると、落胆して去っていった。
得意満面でアンジェーリカの腕をとったのは、言うまでもなくタンクレーディ。頭抜けた美貌のカップルが舞踏会の中心をスピンする。まさに今夜の宴の主人公は、この2人だった。デビューは大成功だった。