43年7月の連合軍シチリア上陸・侵攻の動きを見て、オパチュニストのイタリア国王は反ファシスト派と結託してムソリーニ追い落としを策謀し、退陣に追い込みました。連合国との講和に応じる体制をつくろうと画策します。
首都ローマではファシスト党は解散させられ、バドリオ将軍が臨時政権の首班となりました。
バドリオ首相は9月3日、連合国との無条件降伏協定に署名しました。その結果、イタリア艦隊は連合国に降伏し、連合軍に編合されました。
これで、地中海の制海権は、ほぼ完全に連合国側に帰すことになります。フランス艦隊は、ヒトラーによる征服後に、ブリテン海軍によって全面的に破壊されていたので、地中海では枢軸側のまともな艦隊はイタリア海軍だけでした。
けれども、ヒトラーはムソリーニを幽閉された山荘から奪還して北イタリアに連行して、北部に第2次ファシスト政権を組織させます。そして、またたくまにドイツ軍をイタリア全土に展開させ、占領と征服を進め、連合軍への防備を構築しました。
イタリア半島の海岸線の各要衝にはドイツの陣地と砲列が並び、爆撃機や戦闘機が配備され、連合軍の上陸・侵攻を阻止すべく激しい攻撃を加えることになりました。
さて、連合軍はシチリアを出撃拠点としてサレルノ湾に大艦隊を派遣し、サレルノ、ナポリの占領を試みます。苛烈な艦砲射撃と上陸艇の急襲。
それに対するドイツ軍の攻撃はすさまじいものでした。1か月以上にわたって湾の上空を無数の砲弾と爆撃機・戦闘機が行き交いました。
ついに9月7日、連合軍はサレルノ上陸を果たし、陸上に戦線を構築しました。10月5日にはナポリを占領します。次の攻略目標はアンツィオです。
ナポリはヨーロッパ大陸内部への軍事物資陸揚げ基地、輸送基点となるはずでした。ところが、1か月におよぶ戦闘で港湾設備は全面的に破壊され、港内は撃沈され破壊された船舶や兵器の残骸で埋め尽くされていました。
それを、合州国工兵隊がわずか1か月で修復してしまったといいます。世界で最先端の技術と訓練、技能の賜物でした。
翌1944年1月、連合軍は(ローマへの経由拠点としての)アンツィオの海からの侵攻・占領に向けて動き出しました。
しかし、アンツィオでは連合軍は第1次上陸戦術での判断を誤り、海浜陣地の構築に手間取る間にドイツ軍に戦線を建て直しを許してしまったのです。
ドイツ軍は激烈な反撃を仕かけてきました。
およそ5か月におよぶ激戦の結果、連合軍は44年6月ようやくアンツィオを占領することができました。
アンツィオを失ったドイツ軍は急遽全面的に退却し、ローマからも撤退してイタリア北部に防御戦線を再構築します。
その間に、サレルノ湾から上陸した連合軍の部隊と軍事物資は、アドリア海沿いに北部(ナコーナ、ボローニャ)をめざしていました。