北アフリカと地中海南部では、やはり1942年秋ないし冬から連合軍の反撃準備と反転攻勢への趨勢が見られました。
アメリカは、この年の10月から北アフリカ諸港に向けて繰り返し大輸送船団を送出しり、大規模な兵員と兵器・軍事物資を陸揚げしていきました。
アメリカ合州国は、軍事的支援・援助としてこれらの膨大な物資を北アフリカやヨーロッパに輸出しました。とはいえ、これらを供給したアメリカ企業は無償で提供したわけではりません。
アメリカ政府がまずほとんどを買い上げて、企業に巨額の調達代金を支払いました。代金や費用のいく分かは、ヨーロッパ諸国から長期間にわたって返済償還されました。企業の側としては、いくら設備投資して拡大再生産しても過剰になることはなく、投資は全部が利潤をともなって回収されました。
これは、いわばニュウディール政策の最後の仕上げとなって、合州国全体のインフラストラクチャーは拡充され、大量の雇用と所得を生み出し、世界でトップの工業生産力と企業の資本蓄積量をもたらしました。ヘゲモニーの土台がすっかり確立されたのです。
他方のヨーロッパは、戦争で荒廃し生産力は大きく損壊していましたから、その力の差は歴然となりました。
地中海では、イタリア半島とシチリア、サルデーニャ、アドリア海、バルカン半島沿岸を除けば、おおむねブリテン海軍が制海権を保持していました。
イタリア半島の鼻先にあるマルタ島は、ブリテン艦隊の出撃および中継の拠点となっていました。そのため、連合軍の北アフリカへの海上輸送が枢軸側にひどく妨害されることはなかったようです。
こうして、1942年秋から北アフリカ戦線では、エジプト、アルジェリア、モロッコなどを基点とする連合軍の大規模な反撃が始まりました。
10月にはトゥリポリを占領、サハラに征服地を拡大していきます。
ここでも、1943年はじめが戦局の転機となりました。
枢軸同盟は後退を続け、43年春には連合軍の優越が明らかになっていきます。
43年5月、北アフリカ戦線での優位確保という状況を受けて、ブリテン軍司令官モンゴメリと合州国司令官パットンは地中海側からのヨーロッパ侵攻と解放の戦略について検討協議を開始しました。
そして、トゥリポリ、チュニスなど主要港に連合諸国の艦船を終結させ、大規模な輸送船団・艦隊を編成していきます。
これらの艦隊・船団は、7月のシチリア島上陸作戦に向けて組織され、出航準備を重ねていきます。6月中に出航・出撃を開始した艦隊もありました。
7月はじめ連合軍はシチリア上陸作戦を開始。7月10日には上陸を果たし、島内への侵攻・占領活動に移りました。
8月中にシチリア全域を制圧、翌9月7日にはメッシーナ海峡を渡ってイタリア半島への侵入を達成しました。
一方、アルジェリアでは、ドゥゴール将軍の指揮下で自由フランス軍がこの地域の支配を確保して、やはり地中海からフランス本土への侵攻の機会をうかがっていました。
43年6月には、アルジェに「フランス解放委員会」が設立されました。
ドゥゴールと解放委員会の指導部は、フランス解放戦略を立案していました。コルシカを経由して本土に上陸して、トゥーロン、マルセイユを確保、ローヌ河沿いに北に向けて侵攻・解放を進め、他方で地中海沿いにギュイエンヌまで進軍するという計画です。