17世紀のイングランド諸革命は、イングランドの支配諸階級をアングリカン教会(イデオロギー)をつうじて統合し、土地貴族(地主領主)とシティの大貿易商人・金融商人との同盟と利害をイングランドによる世界市場の征服に適合的な方向に組織化していった。
ピュアリタン革命を指導したオリヴァー・クロムウェルは1660年代にいくつもの航海諸法( Navigation Acts )を制定した。航海諸法は、イングランドの制海圏域――はじめは大西洋だけだったが、やがてインド洋も加わる――を通過するヨーロッパの海運・船舶貿易に対して、思いどおりに課税する権力を正当化する法制だった。
ヨーロッパとアメリカとの貿易では、イングランドの課税権を受け入れさせるために、イングランドの諸港に――積荷への課税検査をするため――寄港するか、イングランド国籍の船舶を利用することを強制したのだ。
これに違反する海運や貿易を担う船舶は、イングランド王権からは「違法(密)貿易」としてイングランド艦隊による臨検や攻撃を受け、罰則課税として積荷を掠奪=没収されるか、砲撃によって沈没させられるかということになった。
要するに、イングランド王室の権威と艦隊の優位を楯にとって、堂々と合法的に海賊行為=課税や略奪をおこなうためのシステムだった。
もちろん、輸出品や輸入品の内容についても厳格に統制・介入した。イングランドの輸出向け製造業や貿易業者の保護のために、競合する品目の貿易を禁止した。こうして、一番利益があがる品目の貿易を排他的に独占し、イングランドの優位に適合した分業体系をヨーロッパ全体に押し付けようとしたのだ。
イングランド海軍の統制下に完全に組み入れられたアイアランドは、よりいっそう従属的な分業体系に組み入れられていった。とりわけ、小麦などの穀物=食糧の生産・流通構造が手ひどい打撃を受けた。
アイアランド産の小麦の輸出は、ブリテン島向けには禁圧され、ヨーロッパ向けには恐ろしく高い輸出関税を課された。そして、イングランド産小麦は関税なしにアイアランドに輸入された。イングランドの農業経営=地主利害を守るためだ。そのために、1730年代までにはアイアランドでは小麦生産が壊滅した。
その代りに、自営農や小作人の小規模の耕地には、ラテンアメリカ原産のジャガイモの栽培が広がっていった。ジャガイモは肥沃度が低い荒れた土壌でも高い生産性を確保できたからだ。そして、ジャガイモは、イングランド産小麦が高騰したときには、アイアランドの貧しい一般民衆の主要な補助食料になった。
そのほか、イングランド貴族(多くは不在地主)の大所領では、イングランド毛織物産業に原料=羊毛を安価に供給するための牧羊が(それまで以上に)広がっていった。
こうして、アイアランドでは自立的な食糧生産=供給体系が衰滅し、全面的にイングランドの地主と貿易業者に従属する状態になった。
ところで、18世紀半ばのヨーロッパは、14世紀後半から始まった気候の寒冷化が一段と厳しくなった時期だった。1740~41年には、北西ヨーロッパは天候不順が続いて、深刻な不作と飢饉が発生した。しかも2年続きで冬季に異常な寒波が襲った。小麦をはじめとする穀物の取引価格は急騰し、アイアランドへの輸入量も激減した。
ヨーロッパ各地では飢饉による餓死や――栄養不足による免疫低下で――病死が急増した。イングランドの横暴で自前の食糧供給体系が崩壊していたアイアランドでは、事態はことのほか深刻だった。1世紀前にイングランドの侵略と破壊によって人口の半分以上を(移民と死亡)で失ってから、ようやく人口の回復が始まったばかりだった。
新たに作付けされたジャガイモは、穀物=食糧危機からかなりのアイアランド民衆の人口を救った。それでも飢餓や病気による死者は15万に達した。だが、いずれにしろアイアランドでの生活をあきらめた多くの人びと(40万以上)が、アメリカ大陸など海外に移住することになった。最悪の見積では、人口の4分の1近くが、この島から失われたという。
北アメリカにアイアランドからの移住者からなるコミュニティが数多く出現したのには、こういう背景があった。現在、シリアやアフガニスタンなどで起きている従来の生活圏の平和と生活条件を奪われたために住民の多くが国外に脱出するしかないという事態の前史は、こうして大航海時代にすでに始まっていたのだ。