さて、マイケルが暗殺合戦をIRA優位へと導き始めたそのとき、アメリカ大統領との会見に失敗したデヴァレラが失意のうちに帰国してきた。彼にとっては、故国でマイケルの声望が高まったことが面白くなかった。そして、闘争が「公然の運動」から「非公然の暴力の連鎖」に陥ってしまったことも気に入らなかった。
彼は独立闘争の形態について不満を表明した。それはまた、そういう闘争形態を選択し指導したマイケルへの「当てつけ」でもあった。
マイケルが選択した戦術のおかげで、IRAは暗殺者の集団、暗殺部隊の集合と決めつけられてしまっている、とデヴァレラはこれまでの闘争形態を批判した。
というしだいで、閣僚会議でデヴァレラは、ダブリン政庁(ブリテン総督府)へのIRAの総攻撃を決定した。
というのは、正規軍どうしの公然たる戦闘だから、「私戦」ではなく「公戦」という形式を帯びるからだ。暗殺作戦も総攻撃も、どちらも殺戮だが、国際的交戦協定が適用される見込みがあるからだ――1916年にはブリテンは協定を適用せず軍事裁判で銃殺刑を科したが。
というよりも、民衆に対して見栄えがいいからだ。政治的威信は高まるということだ。
ところが、軍事部門の長官であるマイケルは、IRAの現有勢力と装備では、ブリテン軍と正面から戦闘を交えることができないという現状判断をしていた。ブリテン側が総兵力が最大4000くらいであるのに対して、IRAは貧弱な装備で訓練もままならない400~600の兵員数(民兵)でしかないことを十分わきまえていた。
総攻撃をおこなって正面から衝突すれば、おそらく1週間とは持たないであろう、と。
ダブリン政庁への総攻撃を開始してからわずか数日で、IRAの兵力は半減ないし3分の1にまで衰退してしまった。それでも、デヴァレラは総攻撃作戦を撤回しなかった。
彼はマイケルに「友軍は、あと何日持つか」と尋ねた。マイケルは「1週間とは持たない」と答えた。だが、実態は、持ってあと2日というところだった。
このまま消耗戦を強いられて敗北し、首謀者は銃殺という帰結が避けられそうもない、とマイケルは読んだ。だが、誤算が含まれていた。