自治権交渉の結果、成立したのはブリテン連合王国の内部の自治国としてのアイアランドだった。つまりは、イングランド王権に臣従する属領というわけだ。
さて、マイケル・コリンズが暗殺された1922から翌年23年まで独立派どうしの内戦は続いた。そして、対ブリテン講和協定反対派の武力蜂起は、23年中に一応、鎮圧された。
やはり、独立派どうしだったから、いつまでも流血の闘争を持続する無意味さを覚ったのかもしれない。そして、デヴァレラが率いる反対派は合法的な政党を組織し、自由国レジームの内部で合法的な政治活動をつうじてアイアランドの独立――自分たちの上位に立つ王権から独立した完全な共和政――をめざすことになった。
協定支持派は共和党(フィアナ・フォール)に結集し、デヴァレラたちはアイリッシュ民族党(フィアナ・ゴール)を組織した。
こうして、国内政治では2大政党が優位を争う形になった。
とはいえ、ブリテンの覇権――イングランド王室の宗主権――に対する不満や憤懣は燻ぶり続け、ときおり粗暴な反乱や異議申し立てが起きた。そういう場合には、ブリテン政府が介入するという内政干渉の威嚇を受ける形で、自由国政府が自ら警察や軍を動かして反乱を封じ込めた。それでもいったいに、ブリテンの支配からの国民的独立を求める意識や思想は根強く持続した。
その後、1932年には、デヴァレラ党首の民族党が総選挙で勝利して、合法的に政権を獲得した。民族党は既存の自由国レジーム内で、ブリテンの間接的ヘゲモニーを受け入れながら、数々の改革政策や自立化をめざす政策を追求した。
そして第2次世界戦争では、名目上は中立政策を掲げたが、ブリテン連邦の一員として連合国に協力した。反ファシズム・反ナチズム戦争のために多数のアイアランド人志願兵がブリテン軍=連合軍に参加した。
戦争後、世界的規模でみると、ブリテンはいよいよ政治的・軍事的・経済的権力を失い、旧帝国内の植民地諸地域の独立闘争に押される形で、インドをはじめとする諸国家の独立を受け入れた。
こうした動きのなかで、アイアランドは1949年にコモンウェルスを離脱して国家的独立を達成し、アイアランド共和国となった。それでも、経済的=構造的にはブリテンの衛星国家として従属的な関係に置かれ続けた――1970年代には輸出額の95%以上がブリテン向けだった。
とはいえ、1960年代初頭にEEC(EC)に加盟してから、ブリテンとの濃密な関係をやや薄めながら、ヨーロッパ大陸諸国や、EECの諸制度をつうじてAALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)諸地域との貿易・投資関係を拡大してきた。
アイアランドのように近隣の強力な権力に構造的に従属する衛星国家(衛星国民)にとって、国民国家という枠組みを超えたECレジームは、ブリテンとの一面的関係を克服して、より国際的・世界的次元で政治・経済・文化の多様化と自立化をめざすうえでは、好適な環境を準備しているともいえる。
世界的規模で国家間・企業間の富と権力をめぐる競争が繰り広げられる限り、階級間、産業間、地方間の格差と利害対立は世界的規模で拡大再生産されてしまう。とすれば、単独の国民国家単位での社会福祉や再分配の政策では、国境を越えた格差と対立を解消できるはずもない。
EC、EUのように個別国家を超えた政治・行財政レジームがきちんと機能すれば、こうした格差と対立を相当程度に克服できるだろう。
アイアランドのようにある強国の周囲で属領扱いで虐げられてきた諸地域・諸地方にとっては、国民国家を超えるレジームがあることは、自立化への重要な条件を提供することになる。
たとえばエスパーニャに編合されているカタルーニャやバスク地方、あるいはイングランドが支配するブリテン連合王国に編合されてきたスコットランドにとっては、横暴な中央政府から独立して独自の国民政治体を形成しようとする願望をかなえる枠組みとしてEC、EUを利用したくなるのも無理はない。