マイケル・コリンズ 目次
アイアランド独立闘争
見どころ
あらすじ
独立闘争の前史
航海諸法と大飢饉
ダブリン議会
フランス革命の時代
19世紀の抵抗と反乱
イングランドの食糧供給地への転換
土地戦争
自治権闘争
◆映画の物語◆
イースター・ライジング
アイアランド評議会
ダブリン警察内のシンパ
独立闘争の熾烈化
局面の転換
デヴァレラの脱走
捨て身の総攻撃
戦闘から交渉へ
タフな交渉
独立派の分裂抗争
マイケル・コリンズの死
マイケル・コリンズの実像
◆その後のレジーム◆
◆北アイアランド問題◆
おススメのサイト
異端の挑戦
炎のランナー
アイアランド紛争に関する物語
黒の狙撃者
死にゆく者への祈り

◆北アイアランド問題◆

  1922年の協定は、北東部をアイアランドのほかの地域から切り離して、ブリテンの「準直轄領」として保持するものとしていた。というのも、ブリテン=イングランド王国への帰属を強く要求するプロテスタント派の力が圧倒的な地方だからだ。
  アルスター州6郡では、プロテスタントが多数派で、カトリック派は少数派だった。ただし、北アイアランドのプロテスタントは、スコットランドから開拓植民のために移住した人びとの子孫からなる「スコットランド長老派」と、よりブリテンの支配層に親近感を持つ政治的多数派の「イングランド(アングリカン)教会派」とに分かれている。

  北アイアランドにも自治権を保有する自治政府が組織されていた。1921~72年まで、自治政府を支配したのはユニオニスト政派で、ストアモントの議会を征圧していた。自治政府の初代首相、ジェイムズ・クレイグは、「自治政府は、プロテスタント人民のためのプロテスタント派による統治組織である」と宣言したという。
  この地方の議会は、「1選挙区1議員」の小選挙区制度にもとづいている。つまりは、相対的多数派の比較第一党が議席の大半を占めるシステムだ。この制度によって、1970年代はじめまで、プロテスタント・ユニオニストが政権を排他的に牛耳ってきた。
  カトリック派アイアランド人は、職業・雇用や政治参加で差別され、排除されてきた。

  とはいえ、より大家族主義的で避妊や中絶を禁止するカトリック派は、人口増加率でプロテスタントを凌駕し、しだいに人口構成で占める比率を高めていった。
  そして1960年代、アメリカでは黒人・有色人種による市民権(公民権)闘争が繰り広げられ、社会的・政治的少数派の権利や社会参加が拡大されていった。世界のマスメディアの注目とか、合衆国ではカトリック派アイアランド系市民が大きな勢力を形成していることもあって、市民権闘争の経験はアイアランドにも大きな影響を与えた。
  アメリカの市民権闘争は、マルティン・ルーサー・キング派のような非暴力の運動形態がある一方で、大都市では市街戦さながらの銃撃戦が演じられた。


  アイアランドでも、IRAとプロテスタント派――武装警察や民兵組織――との武力闘争が激化した。他方で、1964年には「社会的公正のためのキャンペイン」という運動団体が、67年には「北アイアランド市民権協会」が結成されて、非暴力の市民運動が拡大した。
  草の根的な市民運動の高揚のなかで、あまりに専断的なプロテスタント派の政府に対してブリテン政府が干渉して、ユニオニストによる政権独占とプロテスタント派の政治的凝集が動揺、解体し始めた。
  この時期に改革派の首相、テレンス・オニールは、ブリテン連合王国への統合という枠組みの内部で、カトリック派の権利や社会・政治参加を拡張するいくつもの改革を進めた。だが、事態はさらに紛糾し、カトリック派とプロテスタント派との敵対と、それぞれの内部での分裂・対立が深まってしまった。
  ことにユニオニストは、優越と支配権を失いつつあるという深刻な危機感に焦燥していた。

  1968年10月、ロンドンデリーで開催された、平和的な市民権要求の行進に対して、王立アルスター警察(RUC:武装警察)が暴力的な抑圧・封じ込めをおこなった。この様子は、国際的メディアをつうじて世界中に報道され、ユニオニストに対する国際世論が厳しくなった。
  翌年8月には、ユニオニストがデリー市街のデモ行進を強行し、これに抗議するボグサイド地区住民と紛争を引き起こした。カトリック派が集住するボグサイドに通じる街路は住民の手でバリケイド封鎖され、3日間、RUCも街区に入ることができなかった。紛争は、アルスター州各地に飛び火し、統治秩序が麻痺・崩壊し始めた。

  そこにブリテン政府が介入した。陸軍特殊部隊を投入して、反乱と紛争を鎮圧した。デリーでは秩序は一応回復したが、レジームは危機に陥った。
  このあと、北アイアランドは全域におよぶ血みどろの暴力の泥沼にはまり込む。
  悲劇の頂点は、1972年1月30日、デリーのボグサイド地区にブリテン空挺団パラシュート部隊が降下して鎮圧活動を展開したさい、非武装・無防備の市民13人を銃撃して死にいたらしめた。これが「血の日曜日事件」だ。
  この年の6月から、IRA暫定派プロヴィジョナル――正規のIRAを離脱して結成された過激な民兵組織――による爆弾テロが続発(のべ1300件)、ロンドンでも爆破事件が起きた。一連の爆弾事件をひとまとめにして、「血の金曜日事件」と呼ぶ。
  血で血を洗う報復合戦――テロと対抗テロの応酬――の嵐が北アイアランドに吹き荒れた。

  このブログで取り上げた映画作品と原作、『黒の狙撃者』『死にゆく者への祈り』は、こうした紛争を背景としている。
  「血の日曜日事件」に投入されたブリテン軍兵士(SAS)の多くが、作戦の正当性に疑問を感じたり、精神を病んだりするようになった。マンガ『マスター キートン』でも、この事件を原因とする、その後の出来事が描かれている。

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