マイケル・コリンズ 目次
アイアランド独立闘争
見どころ
あらすじ
独立闘争の前史
航海諸法と大飢饉
ダブリン議会
フランス革命の時代
19世紀の抵抗と反乱
イングランドの食糧供給地への転換
土地戦争
自治権闘争
イースター・ライジング
アイアランド評議会
ダブリン警察内のシンパ
独立闘争の熾烈化
局面の転換
デヴァレラの脱走
捨て身の総攻撃
戦闘から交渉へ
タフな交渉
独立派の分裂抗争
マイケル・コリンズの死
マイケル・コリンズの実像
◆その後のレジーム◆
◆北アイアランド問題◆
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■4■ 19世紀の抵抗と反乱

  とはいえ、ブリテンの統治はさらに過酷なものになったのだから、アイアランド民衆の抵抗や反抗への傾向はむしろ強まることになった。島人口のほとんどを占める農民たちのある部分は、非合法の秘密組織に結集した――「白衣団」や「緑帯団」など――。ことあるごとに、自然発生的で粗暴な農民反乱が繰り返された。
  やがて、アイアランド民衆の運動は、カトリックの企業家兼法律家、ダニエル・オコンネルによって「カトリック協会」へと組織化された。だが、この団体の目的はしだいに穏健化し、アイアランド土着のブルジョワや地主階級の――つまり飛び抜けた富裕層――代表をウェストミンスター議会に送り込む権利を要求することに矮小化されていった。
  この目的は1829年の「カトリック解放法」によって達成された。
  だが、ブリテン王国庶民院議員の選挙権を得るためには、10ポンドの納税が必要になった。それまではダブリン議会の選挙資格者への登録のためには40シリングの納税だけでよかった。そのため、アイアランドでの選挙権保有者の数は20万から2万6000に激減した。
  民衆(圧倒的多数は小作農民)の利害がブリテン国家の政策に反映される余地がほとんどない状態は同じだった。

  19世紀アイアランドでの主な大規模な反乱は次のとおり。
・1803年の反乱・・・ロバート・エメット指導
・1848年の「ヤング・アイアランダーズ(青年アイアランド人団)」の反乱・・・T.フランシス・ミーガー指導
・1867年の「リパブリカン・ブラザーフッド(共和派兄弟団)」の蜂起

  1848年の反乱で活躍したF.ミーガーは、アメリカ南北戦争で軍功をあげて准将にまで昇進した。熱烈なアイリッシュ・ナショナリストで、南北戦争で開発された戦略や戦術をアイアランドの民衆闘争に持ち込んだといわれる。
  その後、アメリカで実績を積んだ軍人がアイアランドに帰郷して、対ブリテン闘争の組織化を指導することが目立つようになった。

■5■ 食糧供給地への転換

  さて、「産業革命」と呼ばれるイングランドの急速な工業化にともなって、社会的分業体系におけるアイアランドの役割も変化させられた。つまり、イングランドへの安価な食糧の供給地へと乱暴に転換されていった。

  当時、ブリテン王国には土地経営諸階級の利益を促進するための保護貿易法としての「穀物法」があった。政府が農業生産者――地主と大規模借地農経営――の穀物生産を保護育成するために、輸出奨励金を補助していたのだ。そして、国外からの穀物輸入は禁圧されていた。こうして、農業経営者=地主と農業資本家に十分な利潤を保証する穀物価格が維持されていた。
  だが、国内で生産された穀物が輸出に回されれば、国内での流通量が減って、穀物の価格が騰貴しやすくなる。都市の製造業に雇用されている賃金労働者層の主要な食糧となる穀物価格の高騰は、低賃金の労働者階級からの不満や抵抗を呼び起こす。
  ただでさえ、労働者の粗暴な抵抗や暴動が続発していた。工場の規模と数が激増したため、労働者人口も都市に集中して抵抗や暴動は大規模化していた。
  したがって、国内地辻の安定化のために、安い穀物の供給地をブリテン王国内から調達する必要がある。
  これに応えたのが、連合王国に統合された属領アイアランドだった。穀物法による貿易規制の適用外になったていたからだ。

  というわけで、1世紀前には大ブリテン島内の農業を保護するために抑圧され衰退させられた穀物生産が、今度は拡張されることになった。イングランドの工業ならびに農業部門にける資本蓄積のあり方に全面的に従属して、アイアランドの土地経営は方向づけられることになった。
  アイアランドの地主階級は、小作農民たちに小麦生産を強制した。ただし、イングランドに安価に輸出するために、これまでよりもかなり安い価格で売ることを強制した。もちろん地代は変わらなかった。
  ということは、農民たちは、より多くの小麦を生産しなければ地代が払えなくなることを意味した。農民たちは、地主と輸出貿易業者のために――耕作地のほとんどで――小麦を生産し、自らの食糧のためには――小さな自前菜園で――ジャガイモを栽培した。

  ところが、そのジャガイモの病害による不作が、1840年代のアイアランドを襲った。小麦が豊作の年でさえひどい飢饉が発生して、多くの農民たちが飢餓や疫病で死亡した。他方で、イングランドへの大量の小麦輸出は持続していた。農地で栽培される小麦は、イングランドのためのものであって、アイアランド民衆のためのものではなかったのだ。
  農民人口の激減で農村の荒廃が始まると、農業労働力が不足して耕地の荒廃も進んだ。すると、地主領主たちは農民を土地から追い立てて、所領を牧牛や牧羊に向けるようになった。
  餓死と病死から何とか逃れて生き残った困窮農民を待っていたのは、アメリカ大陸への移住しかなかった。アメリカで彼らを待っていたのは、「債務奴隷」と呼ぶべきほど過酷な長期の無給の徒弟年季奉公だった。アメリカへの移民は、この世紀を通じて続いた。
  アイアランドの人口は、1841年の815万から91年の470万へと激減を見た。穀物栽培地面積は300万エイカーから半減したという。

  今日、アイアランド各地に見られる、緑の草原が広がる牧羊地の哀愁を帯びた美しい田園風景は、このとき多数の民衆の病苦と困窮が生み出した風景だといえる。

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