その2年後、マイケル・コリンズやハリー・ボウランド、イーモン・デヴァレラたちは釈放された。マイケルとハリーは列車に乗ってダブリンに帰還した。彼らを出迎えたのは、この作品では Irish Republican Brotherhood, IRB:アイアランド共和派同胞団の仲間たちだった――この団体のメンバーのほとんどは、いくつもの分派からなるアイアランド独立運動をめざす政治組織「シン・フェイン党」にも属していた。
彼らは自動車で支持者の家――どうやらキーアナン家らしい――に向かった。彼らの車のすぐあとから、王立アイアランド警察の車が続いた。王立とはもちろんイングランド王権、すわわちブリテン中央政府当局が組織した直属の警察組織という意味だ。尾行して、マイケルたちの行動を牽制し、情報を把握するためだった。
マイケルたちは、市街地に入ると警察の尾行をまいて逃げた。
警察当局が、釈放されたマイケルたちIRBメンバーを尾行・牽制するのは、シン・フェイン党の政治活動=選挙運動をチェックするためだ。このとき、アイアランドでもウェストミンスター議会庶民院議員選挙がおこなわれていて、マイケルやデヴァレラや、まだ獄中にいるシン・フェイン党メンバーが統一候補者名簿に名を連ねて立候補していた。
アイアランド独立派は、独立闘争の当面の形態として、ブリテン中央議会に議席を得て彼らの政治代表を送り込んで自治権獲得の運動を組織する戦術をとったようだ。
マイケルも候補者名簿に名を連ね、ダブリンをはじめとする都市や農村を遊説して回った。ただし、この遊説が投票前の遊説なのか、当選後の政策キャンペインなのかは不明。イングランドの横暴を批判し、アイアランドの独立を強く訴えたマイケルも、当選した。
この選挙で、比較第一党が選挙区のすべての議席を総取りする制度をうまく利用したシン・フェイン党が、105議席中73議席を獲得して最大会派になった――得票率は50%未満だったが。
ところが、シン・フェイン党は、ロンドンのブリテン連合王国議会への参加をボイコットして、ダブリンでアイアランド独自の議会――アイアランド評議会――を組織しようとした。
しかしながら、アルスター州を中心とするプロテスタント派ユニオニスト――ブリテン連合王国への帰属を求める政派――の議員は参加せず、そのほかの政派も参加しなかった。そのうえ、共和派メンバーのなかには当選したがいまだ獄中にいるものもいたことから、アイアランドから選出された議員のおよそ半分くらいのメンバーによる総会になった。
1919年1月、アイアランド評議会は「アイアランド共和国」独立の宣言を採択した。その後の4月に、この評議会の議長に就任したのが、イーモン・デヴァレラだった。そして、イーモンを首班とする暫定共和派政権(閣僚会議)が組織された。
このアイリッシュ共和派は、シン・フェイン党が指導する統一戦線で、その軍事部門がIRA(アイアランド共和派軍)だ。IRAは、アイアランド会議の独立宣言と当時に、ブリテン王国に対して宣戦布告した。
このような政治キャンペインの最中に、マイケルとハリーはIRBシンパのキーアナン家の世話になり、その家の美しい娘、キティ・キーアナンと出会うことになった。2人とも、この美女に恋することになる。
1918年の釈放以降、マイケルはすぐれたアジテイターとして、各地で民衆を集めた集会を組織した。
アジテイターとは演説・説得・扇動の担い手のことだが、もともとはピュアリタン革命期、クロムウェル直属の騎兵連隊で兵員たちの代表として活動したリーダーの呼び名だった。彼らは兵士たちの利益を代表して指揮官と交渉するとともに、革命の目的のために兵員たちを説得して結集させ、その士気を高める政治的オルガナイザーとして活動した。
ところが、ブリテン当局はアイアランドの独立を否認していたから、アジテイターが「ブリテン統治の不当性」や「アイアランド独立」を語ると、反逆的行為として(司法手続きなしに)演説や集会を阻止したり、実力行使による解散・排除をこなった。
マイケルも演説中に「タブー」を犯したために、王立警察(武装警察隊)の殴り込みを受けて、首筋を負傷した。そのとき、ハリーに助け出されたマイケルは、キティの家に世話になったのだ。