交渉は1919年10月に始まり、12月まで続いた。
ブリテンでは、マイケルは「アイアランド独立戦争の勝者」(独立闘争の影の指導者)として恐れられていた。しかし、ブリテン政府の代表はしたたかだった。
ブリテン側が突きつけた条件は厳しかった。
①北東部アルスターはブリテン直轄領として、そのほかの地域から分離すること。
②そのうえで、それ以外の北西部および南部の自治を「アイアランド自由国」として承認すること。これには、アイアランド評議会をそのままアイアランド自由国の統治組織=代表院として認めることが含まれていた。
③この自治政府は、ブリテン帝国――コモンウェルス:連邦――を構成する政治体としてとどまる。外交と対外的軍事力はブリテンが担当する。それゆえ、ブリテン王であるイングランド王への臣従(忠誠)を受け入れること。したがってまた、ブリテン国家の保護下での自立であって、主権への制限がともなう。
④南部の港湾を、ブリテン海軍艦隊の寄港地=基地として、使用を認める。つまりは、アイアランドの制海権の防衛はブリテンが担う。
というものだった。
マイケルは、しかし、IRAの戦力が事実上壊滅状態であることを知悉していて、これ以上抗戦を続ければ全滅が待っていることを知っいてたから、この屈辱的ともいえる条件を飲むしかなかった。マイケルは、アイアランド民衆の自治と平和を求めていた。憎悪と暴力の連鎖を断ち切りたかったからだ。
ブリテンもまた、世界覇権の喪失という事態を受けて、戦略の練り直しを必死に進めていた。植民地支配を主要な支柱とする貿易と金融の世界帝国(ネットワーク)が音を立てて崩壊し始めたこの時期、それでもブリテン=イングランドの資本と国家の権力を最大限保持するための世界戦略を。その最初の試みが、アイアランド政策だった。
帝国とコモンウェルス――ブリテンを中核とする国際的な公共財としての同盟=連邦――の内部に自立を求める諸地方をとどめ置く。かくして、国際的競争でのブリテンの影響力の最優位を維持するためである。
ブリテン人が使うコモンウェルス commonwelth という用語はきわめて豊富な意味をもつ。直訳すれば「公共財」となる。
ブリトンは通常、コモンウェルスという語で「国家」とか「社会の秩序」「国際秩序」あるいは、列強国家を中心とする世界的ネットワーク――帝国をより柔軟・穏便にした状態――を意味するようだ。
ここで登場する「ブリティッシュ・コモンウェルス」は、かつての植民地世界帝国を組み換えて、イングランド王への臣従を条件としてブリテンを中心に組織された国際的な秩序やネットワークを意味する。邦訳では「英連邦」となるが、実際には連邦ではない。
ブリテンの軍事的・政治的プレゼンスと世界金融・貿易サービスによる特恵を受ける――主権の一部分をブリテンに預託するのと引き換えに――国際的な秩序の内部にある状態を意味するのだ。