ひとたび文明と国家が崩壊してしまったのち、人びとはどのようにして政治共同体とか国家を再形成するのか。軍事力=物理的暴力の独占とその行使をつうじて、住民全体を威嚇・強制・収奪することで統合をはかるのか。それとも、各地方の住民共同体のあいだの連帯を基礎にするのか。
1997年制作・公開の映画《ポストマン》は、この両極的な選択肢を提起しているように見える。
その選択肢は、私たち市民が日常生活のなかで、どのような秩序意識をもって国家や政治権力と向き合うのかという課題を突き付けているのではなかろうか。
ここでは、物語を追いかけたのちに、物語で描かれた《権力の構築をめぐる2つの道》の対決の構図を、実際の歴史のなかでの国家形成の過程と対照しながら検討する。
原題 The Postman (郵便配達人、郵便局員)。原作は David Brin, The Postman, 1985 。早川書房からの邦訳『ポストマン』あり。
原作では、極限的な状況を設定している。
現代世界では、通常、人びとは「国民国家」という政治組織というか政治共同体のなかで生活している。国民という市民社会の仕組みによる保護や権利を受け、強制・義務を課され、行政装置や企業によるサーヴィスを享受して生きている。それを、いわば「当たり前」の状態として。
だから、この映画が設定する状況は「ありえない状態」と感じるかもしれない。
けれども、今シリアやイラク、リビアやアフガニスタン、イエメンなどでは国家秩序が崩壊状態に瀕していて、ISなどの「テロリスト権力」が暴力と恐怖をもって多数の住民を支配する状況が現に存在している。《ポストマン》で描かれた世界がそこにある。
そこでは、まさに「国家状態」「政治秩序」の回復というか再建が課題になっているのだ。
あらすじと見どころ:
ケヴィン・コスナー監督のこの作品は、日本では、あまり評価されなかった。だが私としては、独特の文明観と国家観を表現していて、深く考えさせられた。
近未来の世界。全地球的規模での戦争の結果、世界秩序は崩壊して人類人口は現在の数十分の1に減少し、北アメリカでも国家と文明装置が崩れ去ってしまった。わずかに生き残った人びとは、あちらこちらで局地的に小さな集落共同体を形成して、かろうじて生存していた。
そのなかで、〈暴力と威嚇・抑圧によって権力と支配秩序を打ち立てようとする独裁者とその私兵団〉ホルニストと、〈郵便システムの組織化をつうじて「合州国」=連邦国家または「国民
nation 」の再建をめざす運動〉とが対抗することになった。
郵便配達人の組織は、主人口の放浪者――ポストマン――がいわば成り行きで吹いた法螺がきっかけとなって生まれたものだ。
こうして、国民国家ないしは国家権力の再構築をめざす方法をめぐって、《軍事力=暴力の独占を最優先する立場》と《住民共同体のあいだの連帯を最優先する立場》とが対決する。
いささか単純化されすぎているが、国家の形成をめぐる手法とイデオロギーの対比が鮮やかに描かれている。多様な民族や住民共同体が対立しながら融合してきた合衆国。独立戦争や戦争、公民権闘争など――力の対決やレジームのシヴィアな選択――をつうじて国家秩序や市民社会の秩序のあり方を模索してきたアメリカンだからこそ、はじめて提起できる問題かもしれない。
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