この映画では、「権威」や「権力」の構築をめぐって、2つの対極的な道が相争う物語が描かれている。これは政治学 political science があつかってきたテーマの1つだ。この映画と原作には、かなり深い意味をもつ状況設定がある。
これは、一方のホルニスト。
この地域でただひとつの組織された暴力、軍事組織だ。この軍団は、一帯に散在する集落(住民共同体)を、組織された暴力の行使によって威嚇・抑圧することで、自分たちの優越を誇示し、住民たちを収奪・搾取している。軍団は、自分たちの支配と優越を確保するために、それぞれの集落を徹底的に孤立させ、萎縮させている。住民共同体の相互のコミュニケイションを阻止・禁圧している。
その意味では、ホルニストは権力を樹立しようとするが、住民共同体相互の結びつきや融合をはかるのではなく、むしろ徹底的に分断しようとしている。ということは、彼らは、というよりも支配者ベトゥリヘムは、国民とか国家を形成・組織化して、その支配者の地位を手にするというつもりはないようだ。国民や国家の形成を徹頭徹尾、阻害・禁圧しようとしている。
ということは、軍団の組織化・統制の手法、住民支配の方法などについては、ファシズムやネオファシズムの手法を借用してはいるが、これらが、危機に瀕した国家の支配方式や統治方法をめぐる思想・運動であるという点で、ホルニストはこうした思想・運動とは異質なものだといえる。
ホルニストが求めるのは、「国家の消滅ないし解体状態」あるいは「混乱・混沌の持続」であって、危機に瀕した国家秩序の「救済」「再編」ではない。
ゆえに、ホルニストの首領は、軍団の分遣隊の巡回によって、権威の伝達や住民からの収奪をおこなっていた。地方の共同体への部隊の長期の駐留や常駐、軍団による常設の行政装置の組織化はむしろ回避していたように見える。
もし、各地に部隊を常駐させ、徴税や統治を固定した関係にすれば、その部隊の指導者はやがてその地の住民との結びつきを強め、利害の共同化が起こる。そうなれば、自分の統治基盤を強化して、自立的な組織となり、ホルニストの首領に対して自立化していく危険性がある。
分遣隊は絶えず移動し、固定的な基盤をつくらせないことが、ベトゥリヘムの軍団運営と住民支配の手法だった。
さて、ホルニストの対極に現れるのが、1人の放浪者が捏造した話から始まった連邦郵便サーヴィスの再建運動。ただし、この運動には、それを支える、合州国中央政府=連邦政府が「再建されつつある」という「作り話」=「神話」が背景に控えている。
放浪者にとっては、その場を取り繕うための幻想・虚構だが、一般民衆にとっては理想となっていった。Idea とは空疎な観念、空想を意味するが、理想や精神の自立性や優越を意味する語でもある。
とはいえ、実際には、論理が逆で、郵便システムの再構築が、連邦国家レジームの再生に結びついていくのだが。なんらかの社会的装置の生成・出現がまず先で、のちに組織化された国家というか公共秩序ができ上がっていく。
この場合、人びとが生きる環境は、
ほんの15年くらい前までは、現代文明が存在し、そこにはIT化という形態で高速かつ緊密に世界中を結ぶ情報ネットワークが存在していたという経験を経た社会の「なれの果て」で、
世界戦争の災厄で文明と国家が崩壊してしまったという状況だ。
それゆえ、ヨーロッパ中世晩期のように地方分散的な社会構造で、多数の小さな領主圏と並んで王権による小さな領域国家がようやくでき始め、さらに国民国家にいたっては遠い将来であるというような「プリモダーン」な時代状況のなかでの「国家形成」「国民形成」とは、質的にまったく事情が異なるだろう。
だが、外見上よく似た状況でもある。
つまり、ある意味での「ポストモダーン」状況なのだ。近代文明の崩壊後の状況なのだ。
この論理は、コミュニケイションの組織化こそが、「国民」の再生、いや新たな「国民形成」のうえで最優位、最高のプライオリティを与えられるべきだいう要請を意味しているように見える。
それは、軍事力の行使の結果、世界の秩序や文明が破壊され、国家という形での社会の統合もまた解体してしまったという事実=経験の重みがあるのだろう。