では、外見上よく似ている中世晩期からのヨーロッパでの国家群の形成史を考えてみよう。詳しくは⇒学術論文《世界経済における資本と国家、そして都市》
中世の盛期まで、ヨーロッパは500〜1000以上におよぶ多数の小さな政治体に分裂していた。領主や王は、自分の所領や支配地に自ら遠征・巡回して、あるいは直属の家臣を派遣巡回させて、裁判や身分評議会を開催し、徴税とか権威の伝達をどうにかおこなっていた。彼らには常設の統治組織はなかった。
13世紀(中世晩期)以降、ヨーロッパでは局地的に分散していた軍事的・政治的権力の地理的拡張と統合が進んでいく。各地で、領主たちのあいだでの権力拡張競争が展開され、その結果、より強力な領主が領域的支配権を握る君侯=王権となり、競争に敗れた、あるいは弱小な地方領主の裁判権や軍事力を併呑し、集権化を進めていく。
多数の地方領主の支配権の自立性はどんどん奪われ、彼らは君侯権力や王権の宮廷貴族になるか、地方統治のエイジェントになっていく。
そういう意味では、国家形成は、各地で小さな軍事単位がより大きな軍事単位に吸収統合されていく過程でもある。
ただし、巨大化し集権化されていく統治組織と軍事力は、一方的に各地の住民=被支配諸階級、下層民衆を抑圧し収奪するというわけではなかった。むしろ、地方領主の横暴や過酷な課税を抑制するという側面が強かった。君侯や王権は、地方領主に対する都市や農村の民衆の抵抗や蜂起を支援する場合があった。もちろん、領主の権力や立場を弱体化し、掘り崩すためだった。
そして、民衆を自分の正統な課税基盤として把握しようとする。その見返りは、より広い地域での平和と安寧の提供だった。
そうなれば、君侯や王権に対抗して、地方の在地権力とか権威を保持しようとする領主や在地勢力は、地方住民への過酷な収奪や抑圧をむしろ抑制し、君侯や王権をこそ、より酷い収奪(課税)や支配を追求する「悪者」に仕立て上げようとする。
王権と地方貴族は、こうして農民や都市住民を自分の同盟勢力に引き入れて、も一方に敵対・対抗しようとしたこともあった。
実際の歴史のなかでは、このような対抗の構図がすべてではないが、しばしば出現する場合もあった。
王権は軍事力を拡張し、その武力による支配圏域を拡大し、集権化を進めたが、一方で、住民社会の平和秩序――もとより身分制による格差や貧富格差はひどかったが――をも保証することで、自らの権威や合法性・正統性を確保しようとしたのだ。
ゆえにこそ、王権が地方統治の担い手として腹心の家臣=貴族を地方に派遣すると、やがて彼らは地方の在地利害と結びつき、王権に盾突く事態となることもあった。17世紀まで、フランス王権は、こうして王権によって派遣されながら、土着化してしまった地方貴族(王族の一員だったのに)の抵抗や反乱に悩み続けた。
したがって、映画の物語でのホルニストの支配方式とはまったく別物である。