映画で描かれた状況から、想像力をはたらかせて、再建された「合州国」のありようをイメイジしてみよう。
この連邦国家がカヴァーしているのは、生き延びた住民たちが集落共同体を営んでいる地域だけだ。となると、北米の内陸部、オレゴン州、ミネソタ州、コロラド州、ミシガン州、ワイオミング州などに限られている。
もとより文明の諸装置はほとんど消滅している。だから、航空機も鉄道も自動車もない。最速の移動手段は馬。ゆえに物流の速度と量は限られ、情報伝達・コミュニケイションのレヴェルも恐ろしく低い。各地の共同体のあいだでの――代表の派遣による――意思疎通や合意、政策協調もまた大変手間と時間がかかるものだろう。
アメリカの外部では、世界秩序は崩壊し、海洋の汚染は沿岸部や島嶼部での人類の生存や集落の形成を不可能にしていた。であってみれば、世界貿易や国際関係もない。グローバルな通信網なんかは「夢のまた夢」のこと。
日本もおそらく消滅しているだろう。ヨーロッパは内陸や大陸の奥地に、これまたわずかに生き残った人口が離れ離れに小規模な集落を形成しているかもしれない。
このような地球(もはや「世界」をなしていない)上に、北アメリカの内陸部にかろうじて骸骨のような合州国連邦が再建されたところだ。各地の住民共同体のゆるやかな連絡網とか協力体制とかいった程度の組織性にすぎないが。
緩やかに組織化・統合された国民(国)をなしてはいるが、それは、住民の過去の(合州国が存在した頃の)経験・記憶にもとづいてのもので、ようやく弱々しいコミュニケイション・ネットワークをつくり始めたところだ。
ポストマンの世界で再建された連邦国家、それは「国民 nation 」とか「国 country 」「国家 state 」を名乗り、人びともそのように意識しているが、歴史上に存在した「国民」や「国」「国家」とはまったく別のものだ。
「国民」とは、外部のほかの国民との関係性のなかではじめて形成され、存在するものでしかない。ある住民集団は、外部のほかの住民集団との対抗関係のなかではじめて、互いに、自分たちの独自の存在や利害を意識し、自らを「国民」として自覚化し組織化していく。
個々人は、他者との相互関係・関係性のなかで、すなわち社会のなかではじめて、(他者と区分されたものとしての)自己の存在やアイデンティティを意識し、「自我なるもの」を形成する。それと同じなのだ。
してみれば、「まずはじめに1つの国(国民)があって、しかるのちに世界や国際関係がある」のではない。はじめに世界がつくられて、しかるのちに各地の住民集団は、それぞれ他者との対抗・相互関係において、自らを国(国民)として形成していくのだ。
さきに見たヨーロッパでも多数の政治体が競争しながら淘汰され、やがて複数の国民国家が形成されていったので、国家によって地理的に区分された住民集合が互いに相手との対抗関係において「国民」をつくり上げていったのだ。