日本に限らず、およそ世界の「文明国家」は、自分の国の「古代からの歴史」を編纂し、公教育制度をつうじて国内の住民にインプリントしてきた。「日本史」や「フランス史」が、あたかも所与の事実として、昔からあるような観念を人びとに「常識」として抱かせている。
だが、そのような事象は、近代以降に固有の特殊な歴史的現象にすぎない。
これまでに見てきたことからすれば、実体をともなう「一国史」や「各国史」が成り立つのは、近代の「国民形成」「国家形成」がかなり進んでからのことにすぎない。
「国」とか「国民」という存在は、近代になってから人為的に構築された「制度化され物質化された観念」にすぎない。ゆえに、それ以前には存在していなかった。
ところが、ことに私たち日本人は、地理的に見て、周囲を海洋によって隔てられた列島のなかで、つまりは「天然の国境」によって外部世界と区分されているせいか、シリアスに「国民形成」とか「国家形成」を考究する経験がない。あるいは、そういう問題意識がきわめて希薄だ。
同じ一続きの道路や河川をある地点で仕切られて国境線が引かれ、そこから向こうが異国である、という経験や法制度があれば、少しは「国」を「対自的に」考えるかもしれないが。
だが、江戸時代ですら、日本列島は、60以上の州国――信濃や若狭、武蔵など――に分かたれ、200以上の領国(領主圏=藩)――松代真田藩や松本小笠原藩など――に分割されていた。それだけ多数の小規模な地方的な(法的には自立した)軍事・行政単位が分立していたのだ。刑法や税法は領国ごとに別だった。
たしかに徳川王権=幕府が「絶対王政」ともいうべき軍事的・政治的優越性を確保してはいた。幕府は、主要街道と伝馬制度を整備し、すべての領主に対して参勤交代を義務づけた。列島の各地の主要街道のどこかには、つねにどこかの領主の(江戸に向かうか、あるいは江戸から帰るかの)家臣団が何組か軍事パレイドをおこなっていた。「徳川の平和」のもとで、やがて、官許の商業資本が廻船海運の輸送網を組織化していった。
だが、その時代にあっても、列島の各地方とその住民の「国民的統合」は十全に達成されてはいなかった。
だとすれば、物流輸送手段やコミュニケイションのテクノロジーが江戸時代よりもさらに未発達だった、それ以前の時代には、実体的なな制度としての「日本国」は存在しようもなかった。
つまり、「国民」「国」「国家」としての日本なんかは、17世紀以前にはどこにもなかったのだ。
存在したのは、遠い将来、日本という国民国家に統合されるはずの地理的空間だけであって、そこには、自立的な政治単位として多数の「個々の地方」が並存していただけだった。