さて、この映画のプロモウションフィルムで、制作スタッフは、こう述べている。
「この映画に出てくる監視・盗聴・盗撮・トレイシングのテクノロジーは実際に使われたものです。それも、実はすでに最新技術ではなく、すでにNSAなどの機関が公開している、古くなった技術なんです。
だから、この作品で登場するテクノロジー、ディヴァイスは、実際のもの、現在の最先端のものよりも、15年は遅れているものなんです」
つまり、NSAなどが、もはや公開しても安全なほどに陳腐化しているテクノロジーでさえ、この映画で私たちを戦慄させるのだとすれば、今現在、国家の安全保障機関が駆使しているテクノロジーの性能、威力は、どれほどのものなだろうか。
そのテクノロジーの鋭い刃は、本当のテロリズムの脅威に対して向けられているのだろうか、それとも一般市民に向けられているのだろうか。いや、利害闘争や根深い敵対を抱えているアメリカでは、おそらく安全保障にとっての敵味方、リスクを正確に判別することは困難だろう。それゆえ、利害闘争、格差と敵対のアリーナである「市民社会」にこそ、監視テクノロジーは向けられるのかもしれない。
近頃のISのパリでの一連のテロ事件は、先進諸国主導による――言い換えれば資本による――グローバリズムがもたらした人や情報の国境を超えた「自由な移動・流動」とかITテクノロジーがもたらした1つの帰結だともいえるが、それはまた辺境での貧困や政治的危機をもたらしたがゆえの状況だ。その状況は逆に、国境とか国籍とか国民性などにひどい歪みというか「ねじれ」をもたらしている。
人種や民族性、言語や文化の差異、国境による政治的・文化的分断の超克をめざすことがEUの理念だったはずだが、中東の混乱・国家秩序崩壊を原因とする難民・移民の流入という事態を目の前にして、ヨーロッパ統合は内側から解体の危機に瀕している。ITを駆使した政府による監視や統制の前では、市民社会の自立と自由はもはや死語になってきた。
いずれにせよ、私たち人類は、市民社会の日常生活を監視と統制の網の目で覆い尽くさないと、秩序の安定や安全を保てなくなっている――それがどんどんひどくなっているという状況に陥っているようだ。そこから抜け出す道は見出せない。