ところで、コンピュータによる通信システムの発達に対して、40年以上も前からNSAは神経を尖らせてきた――監視や統制、解読の対象として――ことは、有名な事実である。
1973年、合衆国商務省(規格)標準局(NBS)は、コンピュータ通信の商業的利用をめぐる暗号システムの国家的標準化をめざして、暗号システムの公募をおこなった。その有力な候補の1つが、IBMの「ルシファー(宵の明星)」だった。
その主要な開発者は、1934年にアメリカに亡命したドイツ人、ホルスト・ファイステルだった。第2次世界戦争では敵対国家だったドイツの出身だった。
そして、ルシファーがアメリカの商用標準暗号に選ばれようとしたとき、NSAは、開発担当者の――いまやどうでもいいような――経歴を引き合いに出して(いや、理由の1つのして臭わせて)、難癖をつけてきた。
NSAは、それまでにも何度もホルストの暗号研究に政治的圧力をかけて妨害し、計画を頓挫させてきた。
その本当の理由は、この数学の天才が暗号開発にさいして生み出した方法論が、あまりにすばらしくて、ルシファー暗号はすこぶる強力で、当時、世界で最先端かつ最大規模の巨大コンピュータシステムを誇るNSAでもトレイス=追跡・解読不可能ではないかと危惧したためだった。
商務省標準局に対して、ルシファーの採用を見送るように圧力をかけてきたのだ。
つまり、NSAが自分たちが監視・追跡・解読可能なレヴェル以下に、経済社会の通信暗号システムを抑えておきたいという要求を、隠すことなく表明し、ほかの政府組織の権限を制限しようとしたのだ。
ということは、安全保障のために、政府や軍のコンピュータ通信はもとより、民間経済でのIT通信も傍受解読しているということを、はしなくも暗に表明したわけだ。だから、経済的な利用に関する暗号を、NSAが傍受・解読可能な範囲に収めるように、要求したのだ。
結局、妥協が成立したといわれている。
すなわち、商務省はルシファーを標準化暗号として採用した。だが、マングラー関数の操作をより単純化して、NSAが解読可能なレヴェルまでレヴェルダウンさせる、という条件つきだったらしい。
いまでも、ウェブで「戦争」「軍事関係」や「政治」絡みのカテゴリーが通信されると、自動的に送受信の当事者や文章の内容が――たとえばエシュロンによって――トレイスされ、「暗号解読」に回されるという。以上の話は、本当か単なる噂かはわからない。
一方で、暗号システムとその解除システムの開発は、数学界では「素数論」を中心とする数論の飛躍的な発達をもたらしてきた。それ自身の数以外には約数をもたない数値は、数字列を使うディジタル――ON/OFFの2値表記を基礎とする――信号での暗号設定またはその解除方法に最適だからだ。
通信内容の暗号化――解読困難化――しようとする側が素数論を駆使して技術開発を進めようとするなら、監視・傍受する側も素数論を駆使して解読(暗号解除)の技術を開発しようとするのは理の当然。というわけで、世界のトップレヴェルの素数研究者たちは、このような「暗号業界」に囲い込まれようとしているらしい。
科学としての数学の政治的中立性というのは、こうして通信暗号を駆使する近代的戦争が出現した頃から久しく失われているという。