この物語の結末近くで、NSAのレイノルズ一味とピンテーロ・ファミリーが互いに武装して対峙し合う場面がある。結局、双方とも撃ち合って殺し合う。このシークェンスは、暴力装置としての政府諜報機関への痛烈なアイロニーのように見える。
片や国家の安全保障を担うエリート集団、片や非合法の犯罪組織。けれども、ともに物理的暴力や組織をつうじて市民社会に独特の圧迫=インパクトをおよぼすという点で共通している。
マクス・ヴェーバーが言うように、国家(装置)の本質的な特徴の1つは物理的暴力の独占であって、それを正統的なもの、合法的なものとする制度をつくり上げていることだ。軍や警察、そのほかの保安・治安組織がその代表的なものだ。
この映画では、国家エリートもマフィアも、ともに暴力で市民社会を威嚇・征圧しようとするゴロツキとして同じ平面状に並べて配置する。そういう構図である。
見方によっては、合法的な政府機関としての自己抑制が欠如し、あるいは市民や議会などからの牽制=制約・掣肘を受けない国家の権力の行使は、まさに犯罪組織の暴力と何ら選ぶところはない、という視点を打ち出しているように見える。
だが、「テロリズムの脅威」を理由とする連邦国家の過剰反応は、ブッシュ政権のもとで実際にあった事実だ。そして、ブッシュ政権に限らず、とりわけ安全保障を担当する国家装置は、いつでも自分たちの権力・権限・影響力を拡大しようとする傾向が見られる。
■なぜ国家組織は自己膨張したがるのか■
そこで、近代の特徴として、おしなべて中央政府は権力や権限、組織の規模、住民社会に対する干渉や規制権能を強化拡大しようとする傾向をもつのかについて、一瞥してみよう。
■統治権力の正統性の根拠■
ヨーロッパで国民国家ができ上がるまでは――将来には中央政府組織になるはずの――王権の統治装置は、商人団体や貴族身分団体とともに特殊な私的な組織集団でしかなかった。だが、社会空間のかなりの部分に強制力や裁判・行財政権をおよぼす最大の組織ではあった。
つまりは、最大の権力を持ってはいるが、貴族連合とか商人団体と同盟したり対抗したりしながら、固有の利益を求めて競い合う特殊な団体にすぎなかったのだ。
だがやがて、国境の内部でただ1つの正統的な統治組織、軍事組織として、一般民衆や市民社会のうえに普遍的な権力、普遍的な秩序の担い手となっていく。そういう法的な擬制というか偽装・装飾を身にまとうようになる。
という意味では、国家の行政組織もまた、歴史的に見れば、自分たちの個別特殊な利益を追求する人間集団にほかならないわけだ。住民から税や賦課金を徴収する権限の正統性は、平和や「公正で普遍的な秩序」を守る役割を果たす限りでのものである。
だから、住民たちは、政府組織が平和や公正の役割を果たさないときには、税や賦課金の支払いを峻拒し、反乱を起こす権利を持っていた。イングランド市民革命期にトーマス・ホッブズやジョン・ロックたちが、中央政府と市民ないし民衆代表との「契約」をめぐる国家の正統性の論拠をめぐって論争し合ったのは、そういう背景があったのだ。
ネーデルラント市民革命もイングランド市民革命も、フランス革命も、アメリカ独立革命も、まさに「平和=統治の代価の徴収」であるはずの課税・徴税の正統性に異議申し立てをおこない、問い直す闘争でもあった。
とりあえずはブルジョワ的な代表装置=議会装置によって中央政権を抑制・統制するメカニズムを生み出した。その当時は、中央政府の組織体制は今に比べて、きわめて粗雑で単純だった。
ところが現在、中央政府組織は複合化し、多様化している。そして、「民主化」された議会装置の一部と巧妙に癒着して、さらには有力経済団体とも独特の利害共同化をなしとげている。
この映画では、NSAという国家装置が、まさに連邦議会のあれこれの党派・政派と利害共同体(軍産複合体の情報部門)を形成して、市民社会の監視統制法案を成立させようとしている状況が描かれている。NSAは自己増殖の傾向=欲求を内在させた独特の利害組織となっている。
国家の安全保障装置である限り、その権力の膨張のための根拠=理由は、安全保障を脅かす要因、すなわち「テロの脅威」である。論理が逆となっている。権限を拡張したいから「テロの脅威」を持ち出すのだ。
だから、「テロの脅威」を生み出し増幅する(世界的規模での)社会的要因を解消除去するための政策ではなく、むしろ憎悪と敵対を増幅するような強行策を提起している。