ことほどさようなしだいで、ターミナルビル――空港施設やショッピングモール――はヴィクトルが暮らす近隣社会になりました。ヴィクトルは広大な空港ビルという社会空間の住民となったのです。そうなると、ご近所との付き合いとか「近隣住民」――ビルに勤務する人びと――と知り合って馴染むことになります。コミュニケイションとコミュニティができ上がっていきます。
■下積みの人びと■
ヴィクトルが最初に仲良くなったのは空港入国管理局のドロレスでしたが、その次は空港施設内の荷物運搬作業係のエンリーケという若者でした。
エンリーケはラティーノ――メキシコ以南のラテンアメリカ地域(スペイン語・ポルトガル語圏)出身者――で、カリブ海諸島のどこかから不法移民してきたらしいのです。空港ビル内で荷物の運搬という「下積み仕事」をしていますが、陰ひなたなくまじめな仕事ぶりで、地道に貯金をしているようです。
さらに次の「お隣さん」は、インドからきわめて私的な理由で亡命したきたグプタ・ラジャーン。
彼は、悪徳警官から執拗に賄賂を強要され虐待されたことから、身を守ろうとしてはずみで警官を死に至らしめてしまい、故国にいられなくなったためにアメリカに逃亡してきたのです。これまたパスポートなしの不法移民で、それゆえ身元確認が採用の前提条件となる「まともな仕事」には就職できません。そんなわけで、彼の仕事はターミナルビル内の清掃作業です。
ヴィクトルが現れるまでは、ときたまにショッピングカート整理で小遣い稼ぎをしていました。ところが、ヴィクトルがライヴァルとして出現したことから、ヴィクトルには良い印象を持っていません。でも他方で、ヴィクトルの立場・事情には同情しています。空港施設内での生存競争ではライヴァルですが、公的な制度の理不尽さによって虐げられている立場としては仲間だからです。
下積みの人びとは、自分の経験から、他人の苦難や逆境を鋭く洞察して、連帯感を抱く能力に優れているのです。
ヴィクトルはそのほか、ビル内のバーガー・キングなどの店舗で働く人びとの多くと仲良くなりました。おしなべて彼らは、テンポラリー ――不定期または短期の雇用のパートタイムかアルバイト――の仕事で暮らしをどうにか支えているので、労働者としての立場が厳しいのです。つまり雇用条件が悪いわけです。それゆえ、大半がヴィクトルに同情的です。
そのうえ、逆境にもめげずに明るく大らかにターミナルビル内で生活するヴィクトルに一目も二目も置いているのです。卑屈さはみじんもなく、堂々と朗らかに生き抜いているからです。
ターミナルビルでは、それぞれの勤務時間に応じてですが、人びとは、同じ屋根の下で仕事をし生活する共通の場を持つことから、貧しく飾り気のない「下町」の近隣社会のような支え合いや連帯感が息づく社会をなしているようです。