ヴィクトルは昨夜、寝る場所を探そうとターミナルビルを歩き回って、書店が立ち退いて「空き店」になった場所を見つけました。そして、使われなくなった連椅子をいくつか寄せ集めてきて簡易ベッドをつくって眠りました。
空腹は、手荷物のなかに入れておいた非常食――ビスケットにチーズを挟んで――を食べて、どうにかしのぎました。
そして、今朝も待合コーナーに来て、手持無沙汰に周りを見渡しているのです。
で、入国手続きの窓口が開いたのを見ると、手荷物とパスポートを手にして歩き出しました。
窓口の担当者はドロレスという女性。
その日から、ヴィクトルは毎日ドロレスの窓口に行って手続き書類に記入して、空港からニュウヨーク市街への外出を求めることになるのです。しかし、国務省の入国許可を得らず、毎回「却下」。ところが、毎日顔を合わせて会話するうちに、ヴィクトルはドロレスと顔なじみになりました。片言英語で、親しく日常会話を交わす間柄となったのです。
厳格で堅苦しい公の制度はどうあれ、仕事や生活の空間を共有し毎日顔を合わす個人どうしのあいだには、人間的な社会関係は時を追ってつくられ、深まっていくことになります。
さて、そんなある日、ヴィクトルが待合コーナーで周囲を眺めていました。すると、ターミナルビル内のショッピングモールで買い物に使うカートを集積所に戻すと、自動管理装置が1台あたり25セントが手数料として支払う仕組みになっていることに気がつきました。
巨大なターミナルビル内のショッピングモールには、いたるとこころに使い終わったカートが置き去りにざされています。全体を見渡すと何百台もあるようです。
ヴィクトルは、生活の糧を得るための仕事を発見しました。安定した「定職」」です。しかも報酬の支払いが確実なのです。
彼は毎日、朝から深夜まで、ショッピングカートを集めては集積所に戻す仕事を続けました。なにしろ、1日に何万人もの人びとが訪れるターミナルですから。
100台で25ドル。1000台で250ドル。毎日、軽く1000台を片づけることができる。日本円で、1日当たり、少なくともだいたい2万数千円以上の稼ぎになるでしょう。
ヴィクトルの仕事ぶりをモニターで監視していた入国管理局の職員の1人は嘆息しました。
「彼の方が、国務省職員のぼくよりもずっと高額の報酬を得ているじゃないか!」
安定した現金収入によって、ヴィクトルは衣食の必要を――さらには読書などの趣味も――満たすことができるようになったのです。
生き延びるために空港ビルを抜け出していくだろう――入国管理官フランクの目論見は、こうして簡単に破れてしまいました。
そのまま数日が経過しました。
このままでは、ヴィクトルがターミナルに住み着いてしまう。国務省の入国管理局が監視すべき人物が空港ビルに居着いてしまうこと、それは行政機関にとっては由々しき事態となります。深刻な問題です。
というのも、次期局長に推薦されているフランクは、近々、人事部門による現場勤務評定・審査を受けることになっていたからです。
勤務評価担当官が訪れたときに、ヴィクトルのような「厄介事」を抱えていると、評価が低くなる恐れがあるのです。
フランクはヴィクトルを居つかせないようにする――空港から追い出す――ため対抗策を案出しました。
翌朝、ヴィクトルがカートを集めようとすると、そこにはすでにカート集め係がいて、集積所にも担当者がいました――自動支払い装置は使えない設定にしてあるようです。こうして、ヴィクトルがカートを集められないようにし、もし集めても集積所で手数料を受け取ることができないようにしたのです。これで、ヴィクトルの収入の道が断たれてしまいました。
生きるためには、こっそり監視の目を盗んでターミナルから抜け出るしかない事態に追い込んだのです。
収入の道がなくなったヴィクトルですが、そうなると非常食で空腹を満たすことにしました。そして、眠る場所となっている空きテナントのスペイスを整理し居心地よくするため、模様替えすることにしました。
ヴィクトルはガラクタを片づけてから、その辺りにある道具を見つけて壁を塗り直しました。
そんなところにターミナルビルの改装や補修を担当する業者がやって来て、ヴィクトルの壁の塗り替え作業と出来栄えを眺めました。ペイントの色合いの調合がすばらしく、刷毛の使い方も上出来でした。
「ちくしょう、ビル管理会社め、俺への当てつけに、ライヴァル業者を入れやがったな」と業者は憤りました。
しかし、ヴィクトルが「失業中」で、やることもないので暇つぶしに壁塗りをしていることを知ると、ただちにスカウトしました。
「仕事が殺到していて、工期が遅れているんだ。仕事のあるときは、1日当たり1000ドルでどうだい?
内装のデザイン=設計も任せるよ」
こうして、器用なヴィクトルはこれまた高給取りになってしまったのです。