ターミナル 目次
「国家と国家」の隙間の落とし穴
原題について
見どころ
あらすじ
クラコウジアからの旅客
東欧市民の《生きる力》
人びととの出会い
美女のフライトアテンダント
恋の橋渡し
ヴィクトルの旅行の目的
がんばれ! ヴィクトル
「国家と国家の法」の呪縛
国家権力の作用の法的問題
国家主権と市民権
国家と市民は対峙し合うもの
「市民と国家」の関係
リヴァイアサン
国家的統合と市民権
国家と市民との妥協としての社会契約
人権を取り巻く政治的=軍事的環境
ヴィクトルの大らかさと勇気
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■「国家」の呪縛と「落とし穴」■

  映像物語の展開は以上のとおりです。が、この記事で語りたかったのは、この物語が提起した《個人と国家》との抜き差しならない関係についての問題です。
  それは、政治や法律、そして外交関係をめぐる堅苦しい社会学上、社会科学上の問題です。
  以下では、映画『ターミナル』が提起した中心的問題《個人と国家の抜き差しならない関係》について考えてみます。

  市民権 citizenship が保障されている近代市民社会は、国家によって政治的・軍事的に総括される「閉じた法圏域」をなしています。もちろんこの「閉鎖性」というか「自己完結性」は相対的なものでしかなく、人びとの経済活動や社会関係は、そうした法圏域を超え出て――突き破って――編成されています。しかし、法体系と法の論理は国境システムによって総括され閉じられているのです。
  実際の歴史では、ヨーロッパが500以上にもおよぶ多数の小王国、公国、領邦など小さな政治体に分割されていた中世から、汎ヨーロッパ的規模で人びとのあいだの交易やら文化活動やらは展開されてきたのです。やがて、それら小さな政治体はより大きな王権国家や都市群からなる連邦国家などに統合され、最終的にヨーロッパには50ほどの国民国家が形成されることになりました。
  この過程は、ヨーロッパが全地球を支配して資本主義的な経済システムを拡大浸透させる過程でもあって、今日では、地球全体でおよそ200ほどの国民国家が成立しています。そういう国民国家のほとんどは、法体系や政治システム、行政組織などについてヨーロッパの諸国家を「先進モデル」としてきました。

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  そのヨーロッパでは、中世以来長らく外交や戦争を指揮してきたのは特権身分の王族や貴族たちです。他方、世界貿易や国境を越えた取引を組織してきたのは、これまた特権を与えられて貴族化した都市の富裕商人層でした。彼らは互いに融合して、国家形成を担いながら政治的統合の中核的として機能するエリート集団となりました。
  そのさい、世界的規模での経済的な勢力争いや権力闘争のなかで各地のエリートたちが国家形成を指導したのです。かくしてでき上ったあれこれの国家は、世界経済のなかで互いに優位を争う政治的=軍事的単位となりました。そういう競争のなかで、スペイン語やフランス語、英語などの国民的言語 national languages は、国家としての統合を追求する王権や中央政府によって、国民的アイデンティティを確立することを強烈に意識してつくられました。
  それぞれの国民的言語は、国境の内部の民衆や諸階級を国民へと統合するイデオロギー装置・文化的装置としてはたらいたのです。中央国家装置の周囲に支配的諸階級を結集させ、この勢力争いや競争に民衆を動員するために、排他的な国民意識ナショナリズムのイデオロギーが編み出されていくことになったのです。

  こうして、人類は近代世界を《多数の国民国家からなる世界システム》として形成してきました。その歴史過程は、政治的=軍事的単位としての国民国家を市民社会の組織形態とし、国境システムの内部で市民権を保証する仕組みをつくり上げてきました。が、同時に他方で、自国の優位のために民衆を戦争に動員したり、他国民を虐げ犠牲にしたりするような、恐ろしほどに重く抗いがたい仕組みをもたらしました。
  たとえば20世紀には、ナショナリズムが極端にはしるとファシズムや侵略戦争をもたらすという苦い歴史的経験を経てきました。そうでありながら、人類はいまだに「ナショナリズムの陥穽」から抜け出すことができていません。ナショナリズムは本質的に排他的なものなのです。
  そして、市民社会や平和は、ひとまず国民国家という単位の秩序のなかで組織化されるしかないのです。国民 Nation というものは、国境や国籍性によって仕切られ、国家によって政治的・イデオロギー的に組織化された住民集合です。してみれば、この世界の政治と軍事のの構成単位が国民国家である限り、私たち人類は、ナショナリズムの落とし穴から自由になることはできないようです。

  「普遍的な人権」というものは抽象的な観念(理想)――今のところ「絵に描いた餅」――にすぎないものであって、現実には個別の国家によって境界づけられ組織化された社会空間のなかで保証された市民権――すなわち国民的市民権 national citizenship ――でしかないのです。市民的自由は、国民国家という枠組みの内部で、市民の監視と法規範とによって国家装置に自己抑制を課すことによって保障されるものなのです。
  概して「国家権力による干渉」からの自由や解放――普遍的な天賦人権――を謳い上げる立場の多くは、国民国家がもたらした、この重い呪縛について「ノーテンキ」です。ゆえに、現実的な説得力や問題解決力を持ちえないでいます。だから、たとえばアフガニスタンの悲惨な現実に直面して拱手傍観のありさまです。

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