ターミナル 目次
「国家と国家」の隙間の落とし穴
原題について
見どころ
あらすじ
クラコウジアからの旅客
東欧市民の《生きる力》
人びととの出会い
美女のフライトアテンダント
恋の橋渡し
ヴィクトルの旅行の目的
がんばれ! ヴィクトル
「国家と国家の法」の呪縛
国家権力の作用の法的問題
国家主権と市民権
国家と市民は対峙し合うもの
「市民と国家」の関係
リヴァイアサン
国家的統合と市民権
国家と市民との妥協としての社会契約
人権を取り巻く政治的=軍事的環境
ヴィクトルの大らかさと勇気
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阿弥陀堂だより
アバウト・ア・ボーイ
のどかな信州の旅だより
信州まちあるき

■国家と市民は対峙し合うもの■

  かくして、市民権は国家権力の作用の効果として発生するものです。であるがゆえに市民は、自らの市民権を守るために、国家権力すなわち中央政府に絶えず批判の目を向けて監視し続けなければならないということになります。鋭い緊張関係に立っているわけです。普遍的な天賦人権だから守られて当然、という能天気な発想ではいけないのです。
  そのときどきの政権が振りまく美辞麗句や甘言に「うかうか」と乗ってはならないということです。しかも。市民は内部に対立のない「まとまり」「住民集合体」ではなく、地方ごと階級ごとに利害の異なるカテゴリーに分割されているのです。だから、市民それぞれの利害関心に沿って、国家を監視すべきなのです。住民集団のあいだの権利の公正さ、公平さを求めて絶えず改善していくべきなのです。
  課税や経済政策などで中央政府が市民のうちどの階級に最も有利な政策を運用しているのか、政府の課税システムは市民たちの国民的な統合・国内平和にとって有益か否かを吟味し監視すべきなのです。
  人権や市民権について「天賦権利」などという安易な幻想を信じてはならないのです。権利とは闘いをつうじて実現し擁護するものなのです。「平和ボケ」に染まってはならない。市民権は特定の政治的=軍事的環境のもとで保たれているのです。日本の現行憲法前文でも、市民権は人びと people の絶え間のない努力によって確保し守っていくべき状態だと啓発・警告しています。

  ところが日本では、かつて官房長官が自衛隊という軍隊を「暴力装置」と形容した――社会学的に正しい認識を示した――ことが進退に絡むような政治的問題になるほどに「平和ボケ」が進展しています。
  現実の世界の軍事的環境のなかで――とりわけ波風荒い極東地域で――軍事的=政治的単位としての自国を防衛するためには、「暴力装置」――それなりの威嚇や殺戮・破壊の能力をもつ組織――としての強力な軍事力が必要なのです。悲しい現実ですが、それが現状なのです。
  自衛隊が災害復旧・救助なども任務としているというような当たり前な事実を楯に、自衛隊という暴力装置=軍組織を保有しているという「国民国家としての属性」をタテマエ上否定してはばからないのが、この国の現実だとは……嘆かわしい限りです。
  日本は、東シナ海から南シナ海(日本海から西太平洋)までの海域で、「自国の領海・領空だから」という国際法的慣例を無視すると公言して行動する「隣の超大国」と、一衣帯水の位置にあるのです。
  そして、日本の軍事力の存在と展開がアメリカとの同盟、つまりアメリカへの軍事的従属を条件として成り立っていること、そのような「厳然たる政治的=軍事的環境」のもとにあることを、肝に銘じて自らの市民権を保持すべきなのです。


  ただし「くにを守る」という場合、その国とは中央政府・政権や国家装置なのか、平和共同体・住民集合としての国民ネイションなのかは明確に峻別しなければならないのです。

  多数の国民国家へと世界が分割され、政治的=軍事的的単位として諸国家が向き合っている状況のなかでは、軍事組織の保有は「国家の必然的属性」というべきものです。国家の政府が成立しているのは、政府が物理的暴力を正当的・合法的に独占している装置であることは、国際法や国際関係の当たり前の前提です。
  『戦争について(戦争論)』の著者フォン・クラウゼヴィッツが言うように、国家の軍隊は、「権力状態としての平和」を維持するために敵対勢力として想定しうる政治体の軍隊の攻撃力を撃滅するほどの能力を持たなければ意味がないのです。事実上、際限がないのです。軍事力は、市民の監視によって法制度を構築して自己抑制するしかないのです。
  ただし、この能力には、世界秩序のありようとか軍事的・政治的同盟関係なども絡みついているのですが。
  たとえばヨーロッパのベルギー王国は、固有の軍隊(陸軍・海軍・空軍)を「さしたる規模では」保有していないの――微々たる軍事力――ですが、NATOという強力な破壊力と防御力を備えた軍事同盟をつうじて軍事力を保有し行使しています。

  多数の国民国家のなかのひとつにすぎない「私たちの市民社会」は、人類の愚かさゆえに、世界のなかでの《力と力の対抗関係》の上に築かれた「仮そめの平穏」、脆い均衡状態の上に成り立っているにすぎないのです。ただし、軍事力という暴力装置をできる限り「市民社会」の規範と結びつけておいて、市民の意思による羈束のもとに置き続けるよう努力・警戒しなければならないのですが。
  つまるところ、国家権力や軍事力は「必要悪」で、ない方がいいのは当たり前ですが、いまだそれなしには生存――平和裏に共存――できないほどに人類は愚かなのです。それなしで生きるほど賢くない、ということです。

  つまるところ私たちは、政治的・軍事的に組織化されたナショナルな社会空間の内部でだけ市民権を享受しているにすぎません。
  とはいえ、たしかに、こうした軍事的環境(安全保障環境)を口実に、軍産複合体(軍事企業群)が、私たちから毟り取られた税金やら超過利潤なりを受け取り、貪っていることも事実なのですが。軍事力という形態での資源の浪費が、人類の経済の中核的部分を構成しているという悲しい現実のもとで、ようやく愚かな人類は生存しているのです。
  要するに、国家の強制力という暴力的なヴァイオレント側面から目を逸らすのではなく、絶えず視野の正面に置いて監視すべきなのです。

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