東欧のクラコウジアから旅客機でニュウヨークに着いたヴィクトル・ノヴォルスキーは、空港ターミナルで「足止め」を食らうことになりました。
本国でクーデタが起きて、それまでの政権が倒れたためです。新たに成立した政府――が代表する国家――は、アメリカ合衆国との正式な外交関係を失ったのです。
故国のレジーム崩壊によってクラコウジアからの旅行者は、「アメリカの領土」内に立ち入ることは許されなくなり、外交関係の次元では完全に市民権喪失の状況に陥ってしまったということです。アメリカと外交関係のない本国に送還されることもできません。
ヴィクトルは一個の人間としてはたしかに存在しています。けれども、法的には存在していない状態になってしまったのです。
こうして、クラコウジアからの旅行者ヴィクトルはターミナルビルに数か月間閉じ込められたまま、したたかに生き延びるために知恵を絞り、マイペイスで「孤軍奮闘」することになりました。
あるとき、クラコウジアという東欧の国から航空便に乗ってやって来たヴィクトル・ノヴォルスキーという男が「観光目的」でニュウヨークのJFK国際空港に降り立ちました。彼は、税関や保安点検の荷物検査を受けたのち、入国検査局のゲイトに向かいました。
パスポートを提示しVISAスタンプ(入国検認査証)を受けようとしたのです。
ところが、VISA発給手続きを担当する検査官は国務省から送られてきた警告書類を確認すると、始まったばかりのヴィクトルの入国手続きを停止して、別の場所に連れて行きました。
空港ターミナルビルディングのあちらこちらに設置してあるテレヴィジョンは、緊急ニュウズとして、東欧のクラコウジアでクーデタが発生して、アメリカとの友好外交関係を築いていた従来の政府が倒れて、反政府勢力が政権を掌握したという事態を報道していました。
さて、ヴィクトルは、入国を拒絶された人物を取り扱うブースに案内されました。そこで、入国検査局次長のフランク・ディクスンから入国を認められない理由を告げられました。
「あなたの国ではクーデタで政府が転覆しました。新しい政権は合衆国と外交関係を取り結んでいないし、アメリカも新政権を承認していません。つまり、あなたは、外交関係のない国から来た人物だから、入国を認めることができないのです」と。
しかも、外交関係のない国には旅客を輸送(送還)できないので、帰国の航空便にも乗ることができない、というのです。
しかし、英語を正確に理解できないヴィクトルは、拒否の理由にいまひとつ納得がいきません。それでも、とにかく、このターミナルビルから外へは出ることができないということ、航空機への搭乗も空港ビルからニュウヨーク市への外出も許されないということは理解できました。
ヴィクトルは、自分の国から逃げ出そうとか、より豊かなアメリカの大都市で稼ごうと意図してやって来たわけではないのです。旅行客としてニュウヨークで訪れたい場所があるから、飛んで来たのです。ごくごく真っ当な理由=目的で、堂々とニュウヨークの街を歩くつもりで訪問したのです。
■入国(移民)管理局の思惑■
結局のところ合衆国国務省は、公式の外交制度上、正当な政府が消滅した国からの旅行者には、アメリカの国土に踏み入る権利を認めるわけにはいかないという判断をしたというわけです。その方針を受けて、JFK空港管理局の次長(次期局長候補)フランク・ディクスンとしては、ヴィクトル・ノヴォルスキーに対してエアターミナル施設の外に出る自由の許諾を拒絶したのです。
もちろん、合衆国政府の公務員としては、ほかの判断や選択肢は許されません。
とはいえ、市民感覚をもっているフランクとしては、そういう堅苦しいうえに面倒で人道を無視した四角紙面の手続きは、表向きの建前だけのことにしておくつもりでした。つまり、ヴィクトルの外出を禁止しておくのは管理局の通常の業務時間のうちだけのことで、深夜になって管理局の大半の職員がオフィスから退出したあとに、監視の目がなくなったということで、ヴィクトルがこっそり外に出ていくことについては大目に見る――見て見ないふりをする――つもりでした。
それが、良心的な公務員としての「人道的配慮」なのです。
じっさい、貧困や政治的迫害からのがれるために、多くの不法移民たちが、空港や港湾の管理施設から監視の目を盗んで逃げ出し、アメリカの領土内部の社会に溶け込んでしまうことについては、――その人物が犯罪者とかテロリストと目されるのでなければ――アメリカ中央政府も市民も、最近までは、きわめて寛容でした(そういう時代の物語です)。ここで、「不法」とは正当な法手続きを踏まないという意味であって、「違法」(法律違反)とは違うことに注意しましょう。
概して餓死や迫害死の危機に直面しない多くの日本人にとっては、入国に関する法手続きを厳密に守ることは「ごく当り前のこと」で、監視の目を盗んで逃げ出すことなど慮外のことでしょう。しかし、故国で迫害を受けたり、困窮に追い込まれたりして、国外に逃れて必死に自分の生きる方途を模索しなければならない人びとにとっては、「生き残るための手段」のひとつなのです。
とにかく空港管理官のフランクとしては、翌日の自分の管理者としての業務開始時間までには、ヴィクトルがターミナルビルから消えていることを期待して家路につきました。
ところが、翌朝、事務所に来てみると、監視モニターにはターミナルビルの内部を手持無沙汰にうろつくヴィクトルの姿が映っているのです。
「なぜだ?! 真夜中には誰も監視がいないのに、なぜ彼は抜け出ていかなかったんだ…」
愕然とするフランク。
「だが待てよ、ここでは生活していくことはできない。いずれ彼は状況から学んで、どうにか出ていくさ…」
と自分に言い聞かせて心の平穏を取り戻しました。
人は生きるために、食物を摂取し、安全に眠る場所を確保しなければならない。そのためには、仕事と収入が必要なのだから…と。