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それにしても、物語の出だしのズッコケぶりには戸惑いました。
ヨーロッパに行くことができなくて絶望しかけている千秋。壁に寄りかかりながら「心の師匠」ヴィエラを回想するシークェンス。
プラーハの市街を流れるモルダウ(ヴルタヴァ)河。
穏やかな流れと近代初期(16、17世紀)の面影を強く残す美しい街並みの風景。
スメタナの「モルダウ」の出だしの旋律が流れてきそうな…
と思ったのですが、流れる曲はドゥヴォルジャークの「組曲:ボヘミア」。「チェコ組曲」とも呼ばれるようです。
これもまた哀愁漂う美しい曲です。そしてオーケストラの演奏会風景…
と、格調高く始まったのに。
生意気盛りの少年が出てきます。ガキのくせに父親のコネを利用して、あちらこちらの演奏会にもぐり込み、しかもオーケストラのハーモニーのエッセンスを「聴き盗って」いくのです。
で、あるとき、「タマゴッチ」が縁で、その少年は、世界的に有名な指揮者、セバスティアーノ・ヴィエラと知り合い仲良くなるのです。
演奏会場で優雅にオーケストラを指揮していた世界のマエストロが、少年が落としたタマゴッチに魅せられて仲良くなるなんて・・・
そして、おもちゃの飛行機の胴体着陸。これは、千秋が体験した事故――トラウマとなって飛行に搭乗できなくなる原因――を連想させる場面です。
なんだ、この調子の落差は!?
なんで描き方(お金のかけ方)にこんなに差があるんだ。
のっけから疑問(問題意識)を抱きながら、物語の進行を追うことになったのです。
場面や人物などの落差を見せることは、喜劇のおかしさを演出するための有効な手法だとはいわれますが。この差はすごい!
私から見ると、このドラマは「軽いミステリー仕立て」にもなっています。
つまり、物語が進行するにつれて、のだめと千秋という主人公2人の深層のメンタリティにかかわる問題(トラウマ)の実態が描きこまれ展開し、やがてその真相・原因が解明されていく、というように。