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「のだめ」vs.千秋真一 ―― 音楽の方法論として

  「のだめ」と千秋真一それぞれに音楽ぬ向き合う姿勢の違い……それは、言ってみれば、音楽の方法論、楽しみ方の立場の違いの問題でもある。
  千秋真一は、作曲者のオリジナリティ、作者自身の楽想・曲想を尊重するという方法=立場を堅持している。だから「のだめ」に対しては、「楽譜を読め」「楽譜を理解しろ」と要求する。
  だが、楽譜は非情に抽象化され、記号化された表現手段であって、作曲者のイメイジや思想を具体的・全体的に表現することはできない。とはいえ、録音技術がなかった時代には、楽譜こそ、作曲者の思い描いた音楽世界を再現する唯一の手段だった。してみれば、現在の音楽家たちは過去の作品としての楽譜を前にして、作曲者がイメイジしたであろう楽想・曲想の再現を試みるしかない。

  だから、作曲者の方法論や生きた時代の状況、彼らの立場、その当時の気分などを詳細に分析して、読み取るしかない。
  ゆえに、極端な話、演奏者が人それぞれに自分勝手に解釈してしても、あながちそれをまったくの間違いだとはいえない。
  また、作曲者自身の意図や意識、その生きていた時代などについては、しょせん理解できないのだから、現代的な視点から作曲家や曲想を再構成すべきだという方法論もある。
  あるいは、「のだめ」のように、自分の気分の赴くまま「自由に楽しく」演奏する方法だって成り立つ。気ままに演奏しようカプリチオーソ・カンタービレというわけだ。

  ここに、「音楽の楽しさ」をめぐって、「必然性と自由」「法則性・約束事と演奏者の個性」というような対立する2項の相関性とかが問題となる。
  つまりは、演奏における自由とは、その場しだいの勝手気ままで達成されるものなのか、それと作品の体系的・包括的な理解の上に立って、その理解が要求する理想や理念をよりよく表現することが「本当の自由」なのか。

  楽器の音響・音声、その合成和音は、要するに物理的現象であって、空気の振動=波動が私たちの耳をつうじて脳に近くされるものである。周波数の高低は音程の高低をもたらし、振動波形の独特の形は音色の差をもたらす。空気の振動波形が、「人間にとって」喜びや快さ、楽しさを呼び起こすようになればいいのである。
  だが、「人間にとっての喜び快さ」とは、音楽の歴史や文化、教育などによって形成されてきたものだ。
  たとえば、ヴァイオリンの音波の振動数と波形をオシロスコウプで見ることができる。ピアノも。チェロも、フルートも。そして、オーケストラの複合的な合成音声を、音波の波形として観測することもできる。
  そうすると、通常の人間にとって、心地よい、あるいは感銘を呼び起こす音波波形がどのようなものかを解析することができる。実際、シンセサイザーのディスプレイ装置では、そういう解析が表示される。

  だが、その波形が私たちの歓声と理性にもたらす効果は、物理的な波動そのものではない。人間の活動、深く感性を駆使しての芸術文化活動の結果として、つまりは社会のなかで歴史的に形づくられた私たちの心の作用の結果として、はじめて生み出された結果にほかならない。
  すぐれた演奏者、すぐれた指揮者がいて、はじめて実現するものだ。
  ここで、ふたたび「良い音楽とは何か」「良い演奏とは何か」が問題となる。

  ところで、古代ヨーロッパでは音楽の先祖としてのムージクムは、理性を呼び起こして神の意思や神がつくったこの世界の摂理・法則を読み解くための学問だった。「音学」だったのだという。ピュタゴラスは、音の高低と振動媒体の長さスパンとが反比例する関係にあることを知っていた。たとえば、弦の長さを半分にすると音程は1オクターブ高くなることを。
  このような秩序だった関係性のうちに、彼は宇宙の摂理を読み解くカギを見出していたという。

  古代ギリシア思想――ことにアリストテーレス――を受け継いだ中世ヨーロッパのローマ教会の神学は、ムージクムを楽しさや喜びなどの快感を得る手段として用いることを厳戒した。だからたとえば、聖堂で奏でられるグレゴリオ聖歌は、美しさを感じさせるというよりも、荘厳さのなかでの祈りを促すものだ。
  一方、世俗民衆の生活のなかでは、古楽器の元祖やらの音響旋律に合わせて、猥雑な物語が語られていたようだ。もちろん、ムージクとは無縁のものとして。

  その時代から何世紀も経てモーツァルトの時代には、富裕な貴族たちに雇われた管弦楽団の演奏が晩餐や夜会で音響的な快楽を得るための装置となった。その時代には「楽曲の独創性」なるものはまったく認められず、誰かの演奏のパクリや模倣が日常茶飯だった。

  というわけで、音楽に社会や人びとが何を求めるかについては、時代ごとに歴史的に大きく移り変わってきた。

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