やがて、ブルックス・ハトルン老人が仮釈放される日が近づいた。
けれども、ブルックスは日に日に気分を落ち込ませていった。ついに、いきり立って「出所がいやだ」と喚きながら、ヘイウッドを人質にとってその喉に剃刀を突き当てた。みんなで宥めて、何とかその場は収まった。
そして、ついに釈放の日。
スーツを着たブルックス老は、幾分気落ちした様子で「外の世界」に旅立っていった。その後、更生監察委員会が用意したアパートメントに住み、近くのスーパーマーケットに勤務することになった。
監視や強制がない自由な暮らし。しかし、生活するために、技能や知識を身につけながら働いていかねばならない。生きがいや目的を持たなければ寂しい。それらは、刑務所のなかでは身につけられなかったものだ。自分は、刑務所のなかでこそブルックス・ハトルンという1個の人間だったが、この世界では何者でもない。アイデンティティがまったくないのだ。
ゆえに、ブルックスにとって、「娑婆の世界」は、すべてが戸惑いであり、恐怖の対象だった。つまりは、これからずっと恐怖に取り巻かれて行き続けなければならない。それは耐えられない。ブルックスは結局、死を選んだ。
ある日、彼がアパート部屋で首を吊って死んでいるのが発見された。
この当時、アメリカの刑務所は、犯罪を犯した者をひたすら社会から隔離し、封じ込めるために存在していた。彼らの人権や、更生や矯正、社会復帰への訓練や教育は、少なくとも具体的な制度としては、およそ問題の外だった。もちろん、個人として努力して自分を改造し、技能を身につけて社会復帰を達成した者もいた。が、少数派だった。
もちろん、フィラントゥロピーや慈善活動で、彼らのリハビリテイションを支援する仕組みはあった。が、多くは、そうした機会へのアクセスを持たなかった。
余刑者たち(刑期を終えて釈放された人たち)は、塀の外では自立した人間=勤労市民として生きる目的や手段を持ちえず、アイデンティティを見失い、ふたたび犯罪を犯し刑務所に戻るか、闇社会で暮らすか、あるいは死を選ぶか・・・。
この作品は、厳しい現実を描き出している。
アンディが図書係になってから、つまり、州議会に「刑務所での図書購入」の請願状を毎週出し始めてから、10年以上が過ぎた。ついに、州政府はショーシャンク刑務所のために図書を購入して、送りつけてきた。いくつもの段ボール箱に詰め込んで。
ショーシャンク刑務所の図書室は一気に蔵書数を増大させた。
ウォーデン所長は、図書室を拡張するための建物内部の改装を認めた。受刑者たちは、従来の図書室と隣の部屋を仕切っていた壁をぶち抜いて、フロアの面積を広げる工事を熱心に進めた。そして、閲覧室と開架式書庫を設置した。
1950年代後半から60年代にかけて、人権や市民権の拡大の動きが連邦全体におよんだが、その動きは刑務所の運営と受刑者の扱いをめぐっても現れた。州政府・議会の態度も変わったのだ。ウォーデンも、そのトレンドにしたがったというわけだ。
アンディやレッド、ヘイウッドたちは、図書を書庫に分類整理するために、書籍や文献、レコードなどの分類仕分けをおこなった。そのシーンがなかなか面白い。
たとえば、スティーヴンスンの『宝島』は、小説(フィクション)の冒険ものに、趣味や工芸、自動車修理方法の解説は、教育(趣味や職業教育)に分類された。その作業のなかで、ヘイウッドが、アレクサンドル・デュマの『モンテクリスト伯』を探し出して悩んでいると、アンディが「それは脱獄(牢破り)の物語だ」と説明した。するとすかさずレッドが、「それなら教育に分類だ」と決定した。
つまり、受刑者に脱獄の方法を教える図書だというわけだ。