抜きん出た音楽の才能を神から与えられたアマデウス・モーツァルト。
だが、この映画では、救いようのない奇人として描かれる。「天才は奇矯な変人」ということか。
美と調和を極めた音楽を創作するモーツァルトの才能は、奇矯な性格と破綻寸前のような人格と同居している。
悲惨な死を迎えるモーツァルトの人生を語るのは、その天賦の才に嫉妬した宮廷楽寮長のアントーニオ・サリエーリ。輝かしい地位と実績を誇る、このマエストロもまた、救いようのない人物として描かれる。
この記事では映画の物語と比較しながら、2人の実像を追う。
映画の物語はこうだ。
アマデウスは父親からの独立を求めてヴィーンに暮らすことになった。
オーストリア皇帝の形ばかりの厚遇を得たが、宮廷楽団での地位を得ることはできなかった。皇帝が支配する都市ヴィーンは、パリやロンドンほどには都市ブルジョワ向けの「自由な芸術音楽」を求めているわではなかった。
モーツァルトは生活費を稼ぐために、生まれ始めたばかりの貧弱な「音楽市場」でオペラやシンフォニー、コンチェルトなどの作曲・演奏指揮で報酬を得ようとする。
そんなとき、サリエーリとの知遇を得た。
アマデウスの才能へのサリエーリの嫉妬は、しだいに殺意に近い憎悪に変わっていく。そして、アマデウスの苦悩につけ込んで、精神的・肉体的に追いつめて死に至らしめる方途を思いついた。
だが、他方でサリエーリは自分がモーツァルトの音楽の虜になっているのを自覚していた。モーツァルトの楽曲こそ、サリエーリが理想とする(だが自らは生み出せない)音楽なのだ。
物語は、悲劇的な結末に向かって走り出す。
この物語の人物設定はほとんどフィクションで、それも「才能と嫉妬」というテーマを極限的な設定で描き出すために、相当に誇張され戯画化されている。
とりわけサリエーリの人物像の設定が悲しいほどにひどい。
そこで、ここではまずはじめに、サリエーリの弁明というか、実際の人物像に迫ることで名誉回復することから始めたい。
というのは、映画を見た人びとがこの物語でモーツァルトとサリエーリとの関係を理解したつもりになることを恐れるからで、それはたぶん音楽史についての理解をも歪めてしまうと考えるからだ。