映画ではこうなっている。
1820年代のヴィーンでのこと。
ある日、ザルツブルク大司教から招かれてその滞在先に訪れたアントーニオ・サリエーリ。モーツァルトとの「一風変わった」出会いを経験する。
1781年の冬、サリエーリはザルツブルク大司教=コロレード伯のヴィーンの居館を訪れた。
おそらくは、女帝マリーア・テレージアの盛大な葬儀にヨーロッパ各地からやって来た貴顕を城館に招いてもてなし、ついでに大司教の権威を見せつけるために、開催された豪華な晩餐会に。
それから40年以上を経たある夕刻。広壮な邸宅に住む偏屈そうな老人が、寝室に引きこもったまま自殺をはかった。
命を取りとめたものの、精神が錯乱した老人は修道院の施療院(精神病院)に収容された。当時、まだいわゆる近代的な病院はなかった。
しばらくしたある日、若い教区司祭がこの施療院に呼び出された。「誰かを殺した」と喚いている老人がいるので、告解を聞いてほしいという要請によるものだった。
施療院のなかには異様な声や物音、異臭が立ち込めていた。
廊下を抜けて富裕者向けの個室に入ると、ずいぶんやつれた老人がいた。
司祭が問いかけると、老人は「私はモーツァルトを殺したのだよ。……君はモーツァルトを知っているかね?」と話し始めた。
「いいえ、誰ですそれは?」と司祭。
私はアントーニオ・サリエーリ。この帝国の宮廷楽団長をしていたのだよ」
だが、音楽の世界に疎い司祭は、当惑するだけだった。
サリエーリと名乗る老人は、幾分気落ちして、かつて自分が作曲して宮廷とヴィーンで好評を博した旋律を口ずさんだ。「この曲を知っているかな」
当惑。
そこで、次にモーツァルトのセレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の出だしを口ずさんだ。すると、若い司祭は「聞いたことがあります」と微笑んで、続きの旋律をハミングした。
サリエーリは苦々しい顔つきで言った。
「それが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作った曲だよ」
「ああ、モーツァルトですね。思い出しました」司祭の顔が輝いた。
「そのモーツァルトを死に追いやったのだよ、私は……」と言って、老人は回想に浸りながら、語り始めた。
というわけで、この物語は、アントーニオ・サリエーリの1人称で語られ、彼の目を通して描かれる、ヴィーンのモーツァルトの生きざまと死に至るいきさつである。
このとき、アントーニオ・サリエーリは、母マリーア・テレージアから皇帝位を継承したヨーゼフ2世によって宮廷作曲家(Hofkomponist)として召抱えられていた。
この映画では、サリエーリはアマデウスの才能に根深い嫉妬を抱くようになる。やがてそれがアマデウスを死にいたらしめるほどに。
だが、実際のサリエーリは、モーツァルトなんかは足元にも及ばない輝かしい地位と経歴を保持していたため、モーツァルトに同情しこそすれ、嫉妬や羨望を抱くような理由はほとんどない。
アントーニオ・サリエーリは1750年、北イタリア、ロンバルディーアの真ん中にある町、レニャーゴの裕福な商人の家に生まれた。幼い頃からサリエーリは、兄のフランチェスコとともにヴァイオリンとチェンバロを学んでいた。
映画では、金儲けだけに夢中で音楽には無理解な父親が登場するが、実際には、富裕な商人として芸術には関心があって、そこそこの金をかけて息子たちに音楽教育を受けさせていた。
だが、サリエーリは若くして両親を失った。
が、家門の資産を活用して、音楽家としての道を歩み始めた。当時、親のない少年を養育する施設は音楽学校でもあったので、資産付きでそういう施設に入所したかもしれない。
彼は、両親の死後、音楽の研鑽のためにパードヴァに移り、さらにヴェネツィアに移った。
そこで、ボヘミア人のフローリアン・レーオポルト・ガスマンの知遇を得た。
ガスマンはオーストリア皇帝の宮廷に仕え、バレエ曲やオペラを作曲していた。ガスマンの勧誘と推薦で、サリエーリはヴィーンの宮廷楽団に加入した。そして、演奏やイタリアンオペラの作曲で頭角を現していった。
1774年にはヨーゼフ2世によって、この年没したガスマンの後継者として宮廷作曲家の地位を与えられ、88年には宮廷楽団長(楽寮長:Hofkapellmaister)に任命され、1824年に死去するまで、終生このポストにとどまった。
このほかヴィーンの音楽芸術家協会の総裁を長年務め、音楽界のすぐれた指導者として数多くの業績を残したという。
彼の薫陶を受けた多数の弟子たちのなかには、ベートーフェン、リスト、シューベルトなど錚々たる顔ぶれがいる。
そして、アマデウスの死後、彼の子息、フランツ・グザーヴァー・ヴォルフガングを懇切に指導して、一流の音楽家に育てている。
その当時、オーストリア帝国宮廷の儀典や行事は毎年途切れることはなかった。これに王室内々の夜会や晩餐、室内楽会を加えると、年間少なくとも50以上はあっただろう。
当時の状況からして、そのほとんどにオリジナルの作曲を担当したとすれば、使い回しが何度もあったとしても、サリエーリ自身、モーツァルトに匹敵する数の曲を創作しているのではないだろうか。残念ながら、譜面はそのごく一部しか残っていないという。