さて、では映画作品の物語に戻ることにする。物語のほとんどは、若者の天賦の才能に対する老大家の嫉妬心の増幅を「これでもか」と描き出すためのフィクションであろう。
1780年の冬、アントーニオ・サリエーリは、大司教のヴィーンの居館に到着したが、まだ音楽会は始まっていなかった。手持ち無沙汰のサリエーリは、好奇心から城館内を歩き回った。
すると、給仕係が晩餐会場となる部屋に豪勢な料理を運びこむのを見て、その部屋に入り込んだ。というのも、彼は甘い菓子(デザート)に目がないからだ。そこで、こっそりチョコレイトをあしらったデザートを失敬しようとした。
そのとき、奇矯な声とともに、妙齢の女性と彼女を追いかけてきた若者が部屋に駆け込んできた。
そのカップルは戯れ合いに夢中で、サリエーリに気がつかなかった。サリエーリは物陰に身を寄せて、2人の様子を眺めた。
若者は、女性に愛を告白して結婚を申し込みながら、その言葉のなかに「ウンコ」を何度も織り込んでいた。
そう、この映画はモーツァルトをスカトロジストとして描いている。スカトロジーとは、糞尿にまみれた話、糞尿譚のこと。つまり、アマデウスは「ウンコ」の話が好きなのだ。
アマデウスのこのような性格づけは、後世に残された彼の手紙に「ウンコ」の話題が何度か出てくることが原因らしい。
なにしろ、今場面に出てくる女性の前に恋慕の情を抱いた女性へのラヴレターに、何度も「ウンコ」を登場させているくらいなのだ。
ところが、当時の若者の会話には、この手の話題が散りばめられていたらしい。というのも、「ウンコ」は、都市部(ことに財政が貧弱な地方都市)では人びとにごく身近な存在だったからだ。
下水施設や排泄物処理施設がはなはだ未整備で、一歩表通りから裏通りや、貧相な住宅以外に入ろうものなら、道の端に排泄物が投げ捨てられていたのだ。
当時、まだ、男性がハイヒール靴を履いていたが、それは、未舗装の裏通りなどでは泥だらけで、しかも糞尿にまみれていたから、かかとを高くして、不潔な汚れから足元を守るためだったという。
身近なものなら、別段スカトロジストではなくても、話題の端に「ウンコ」を散りばめるのは、それほど奇異ではない。
それにしても、高位の貴族の城館で、貴族=大司教の従僕(召使)の1人にすぎない若い楽団員が若い女性と戯れるのは、異様なことではある。
とはいえ、そのときサリエーリは、その奇矯な若者がモーツァルトだとは知らなかった。
さて、この戯れの最中、扉の彼方から音楽が聞こえてきた。その曲は、大司教とその賓客たちの前でアマデウス自身の指揮で演奏するはずの曲だった。
ところが、予定時間にアマデウスが現れないものだから、痺れを切らした大司教と楽団が演奏を始めてしまったのだ。
アマデウスは、慌てて部屋を飛び出し、身なりを整えながら、演奏会場に駆けつけた。そして、おもむろに楽団の前に進み出て指揮を開始した。
有力な大司教の賓客を招いての室内楽演奏に作曲家=指揮者が遅れるとは、しかも身分秩序が厳しい、このヴィーンで。サリエーリは、この事態の成り行きにいたく驚いた。
一方、演奏に遅刻したアマデウスに唖然とし、憤懣に目をむいた大司教だったが、周りを見回し場所柄をわきまえて、どうにか威厳を取り繕った。
ところが、曲は優雅で気品に満ちていて、神の威光と大司教の威厳を誇示するのにいかにも相応しかった。サリエーリは、神の気まぐれに舌打ちした。
「神は、こんな人格陋劣な若造に、これほど美しい音楽想像の才能を授けるとは……」と。
このあと、モーツァルトと大司教のあいだで一悶着あった。
当然、大司教コロレード侯は、控えの間に生意気な若者を呼びつけて、遅刻という醜態「ふしだら」をたしなめた。だが、アマデウスは「それなら楽士長の職を解雇してください」と開き直った。
ところが、モーツァルトの身分帰属を支配できる大司教は許さなかった。「今後も私に仕える身分にとどまれ」と。つまり、好き勝手は許さん、というわけだ。
しっぺ返しに、アマデウスは扉を開け放って、演奏会場でいまだに称賛の拍手を送る貴族たちの様子を、大司教に見せつけた。
というわけで、この場は喧嘩別れした。こんな場面はもちろんフィクションだ。
実際にモーツァルトは、このままヴィーンに居続けることになる。父親レーオポルトが大司教との関係を修復するようにと手紙で何度も説得したが、アマデウスは聞く耳を持たなかったらしい。