アマデウス 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじと状況設定
アントーニオ・サリエーリ
発  端
輝かしいキャリア
2人を隔てるもの
〈神の寵児〉と父親
天才児と英才教育
立ちはだかる父親
音楽旅行
父親コンプレクスと反発
ザルツブルクでの鬱屈
挫折の味
身分秩序の壁
権力と芸術
権力の飾り物
世俗権力の成長と音楽
音楽は特注品で使い捨て
芸術性の芽生え
楽器の開発・技術革新
ひょんな出会い
楽曲の美しさとの落差
ヨーゼフ2世の宮廷で
ドイツ語歌劇
アマデウスの結婚
募る嫉妬と反感
父親コンプレックス
父親の顔つきと表情
サリエーリの計略
フィガロの結婚
妨害工作
天才は時代を先取り
父の死の打撃
アマデウスに死を
天才の早逝
そのほか諸々もろもろ
妻、コンスタンツェのこと
ザルツブルク大司教との対立
バロックからモーツァルトを経てベートーフェンへ

権力の飾り物

  当時、この地域は政治的・軍事的にひどく分裂していた。ドイツ・中央ヨーロッパは多数(200以上)の領邦国家に分断されていた。
  この地域で有力な君侯は、プロイセン王、ザクセン公、バイエルン公、ザルツブルク大司教、そしてオーストリア王などだった。なかでも勢力を拡張していたのは、プロイセン王国とオーストリア王国だった。
  プロイセンはシュレージエンに勢力を拡張し、ザクセン公領のあちらこちらを支配下に収めようとしていた。オーストリアもまた、ボヘミアやハンガリーに権力を拡張しようとしていた。
  だが、いずれにせよ、イングランド王権やフランス王権のように国民的規模での政治的・軍事的統合を進められるほどに強力な王権ではなかった。

  他方、中小の君侯領主たちは、有力君侯の周囲に結集して「寄らば大樹」とばかりに庇護を求め、同盟を組んでいた。
  しかし、プロイセンやオーストリアが勢力を拡張して強大化し、多数の弱小領邦を併呑してドイツを統合しようとする傾向には、多くの場合、これらの中小領邦は合従連衡して、執拗に抵抗していた。庇護は得たいが併呑されることには抗っていた。
  ことにザルツブルク大司教は、ローマ教会と教皇庁の権威を盾にして、周囲の君侯から大きな独立性を保っていた。そして、各地での紛争や勢力争いに干渉容喙していた。
  プロイセン王権やオーストリア王権(皇帝)からすると、ザルツブルクからフランケン地方にいたる南ドイツの中小諸領邦は、分立割拠的で、領土や支配圏域の拡張のためには大きな障害となっていた。
  ことにオーストリア皇帝から見ると、ヴィーンの近くでいわば独立の王権のように振る舞うザルツブルク大司教は、鼻持ちならない存在、「目の上のたんこぶ」だった。

  けれども、ローマ教会の幹部である大司教の地位は世襲ではなく、ときどき交代する。そんなとき、オーストリア王は自分の息のかかった聖職者――家臣の家系の出身者――を大司教に指名し、教皇庁に任命を迫ることになる。
  モーツァルト父子に圧力をかけた大司教は、そんな経緯でザルツブルク大司教に着任したしたコロレード伯だった。

  このように大小さまざまだが、生き残りを賭けて競争し対抗し合う領邦君主たちにとって、音楽はほかの芸術や学芸、建築と並んで、自分の宮廷の権威や格式の高さを誇示するための装飾装置だった。
  ヨーロッパでは、王権や宮廷を取り巻く有力貴族たちが芸術や学術・文化をの力を誇示し装飾する手段として、その統治装置のなかに組み込もうとしていた。
  こうした動きは、イタリアでは15世紀のルネサンス期から、エスパーニャでは16世紀から始まっていた。
  権力や権威の装飾装置として音楽を庇護奨励し利用する傾向の先進地帯は、何と言ってもイタリアだった。
  その後17世紀の半ばからは、ことにフランスで、つまりエスパーニャと張り合って集権化と権力拡張を進めるフランス王権と宮廷貴族たちが、建築や美術、学問の庇護と奨励を大々的に繰り広げた。
  バロック芸術はこのような政治的環境を背景として花開いた。
  とはいえ、音楽はその動きのなかで扱いは比較的に軽かったというか、権力者の関心を呼ぶのが遅かったようだ。音楽の発達は絵画や彫刻、建築などよりも遅かったせいかもしれない。

世俗権力の成長と音楽

  ところで、中世をつうじて音楽=ムージクムは、神の意思を体現する宇宙の摂理(宇宙の音=振動)を数理的に読み取る学術として発達したが、実際の音響の美しさを求めることは抑制されていた。
  なかでも教会・修道院は、聖堂に集い祈祷する民衆に「神の権威」や「天上界の美しさ」を伝達する聴覚的にして視覚的装置として、音楽・歌唱を研究し、利用してきた。
  こうして、音楽(音学)はローマ教会=聖界権力の権威伝達装置であると同時に装飾装置でもあった。
  ⇒中世から近代への音楽(musicum)の歴史についての基礎知識
  しかし、16世紀以降、17世紀をつうじて、イタリアでは世俗的権力を謳歌する都市の商業貴族の文化芸術が発展していった。人の美意識や欲求は自然なものとして受け入れられ、美や喜びを追求することは悪徳とは見なされなくなった。

  だが、イタリア・ルネサンスの時期には、素人の私からは、音楽は見るべきほどの発展を遂げなかったように見える。均衡・均整・と対称性を重視するルネサンスの発想からは、その当時、強弱の誇張や旋律の動きや揺らぎによる音楽表現は生まれようがなかったようだ。
  ルネサンスのあと、マニエリスモ――均整を崩すほどの誇張や反復、対称性の意図的な破壊や歪みを情感や感動の表現手段とする方法論――を経て、バロック時代(それも後半期以降)になって、音楽は目覚しく発展する。
  この時期は、西ヨーロッパ各地でいくつもの強大な王権が成長して、王国域内で権力集中を進めようとしていく時代でもあった。有力な君侯領主たちの勢力争いが繰り広げられ、のちに「絶対王政」「絶対君主」の時代を迎えようとしていた。
  ヨーロッパ世界貿易も発展し、やがてのちには貴族の模倣から始まった都市のブルジョワ文化も成長する。

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