耳のよさは語学にも発揮されたようだ。
何しろ、知能が高く語学が得意な父親の血を引いているうえに、耳がいい。発音やイントネイション、「地方なまり」まで聞き分けてしまう。
父親のレーオポルトは、ドイツ各地方はもとより、デンマーク、ネーデルラント、フランス、イングランド、イタリアなどに公演旅行する計画を立てると、その地方の言語を使いこなすまでにマスターしたらしい。
というのも、庶民の旅行なんていうのは、もってのほかの時代。旅行代理店もなければ、トゥアーコダクターもいないし、通訳専門家もいない時代。旅先での交通手段や宿の手配から、食事や日常の用まで、すべてその地の言葉を使いこなさなければ、どうしようもないからだ。
この、幼年期からの旅から旅への生活は、アマデウスの心と脳にじつに多様な経験と刺激、知識を与えた。もちろん、音楽経験も。
ヨーロッパ各地の宮廷や貴族の邸宅などでの音楽会(パーティや儀式)、高名で優秀な音楽家・演奏家などとの出会い。これらは、天才児の音楽能力の促成栽培で高濃度の栄養を注ぎ込んだに違いない。
だが、遠方への旅行は、治安上の問題のほかにも、疾病や疲労、事故などで生命の危険も高かった。なにしろ、交通手段は郵便馬車や河川・運河の舟運、海運しかない。
馬車はと言えば、ヨーロッパの主要都市を結ぶ数少ない舗装路だけしか走れない。座席空間は狭いし、揺れや衝撃はひどかった。それに連日長時間、乗り続け、乗り継がねばならないのだから。
しかも、おそらくは、当時の食事・栄養状態で、音楽を中心に脳を酷使し続けたから、才能はものすごく発達したが、栄養は大部分が脳の成長に回ってしまったともいえる。
大きく発達した頑丈な肉体が育つ条件はなかったようだ。
そのため、アマデウスは旅という過酷な環境によってある程度の発育障害を受けて、体格が大きくならなかったという。つまり、小柄だった。
この映画の物語は、アマデウスを死に追いつめたと思っているアントーニオ・サリエーリの独白回顧として描かれる。というわけで、狂言回しのサリエーリが、オーストリア帝国の首都ヴィーンでモーツァルトに出会うところから、実質的に物語が動き出す。
だが最初の出会いは、1780年冬、ザルツブルク大司教主催の音楽会だった。
そのときモーツァルトは、父親の庇護と指導から自立して、いやむしろ反抗して、自分の音楽家人生を歩もうと模索していた。
そこで、そこにいたるまでの経緯を見ておきたい。
というのも、映画に描かれた、あるいは描かれなかったアマデウスの足跡と人格形成の過程を抑えておきたいからだ。
身分秩序のなかで出世栄達を志し苦労を重ねたレーオポルトは、英才教育を施した息子にはさらに上昇してほしいと願っていたはずだ。それは他方で、身分秩序のなかでの身をもって体験した苦悩から得た教訓だっただろう。
だから、処世法やら立ち回りの巧みさについてもアマデウスに口煩うるさく教え込んだであろう。そして、息子にはザルツブルク大司教に寵愛されるようにレールを敷いた。
しかし、自分の才能について何ほどかの自負と野心を抱いていたアマデウスにとっては、ありがた迷惑の束縛とも感じられたであろう。
とすると、アマデウスは父親の影響下から飛び立とうとしながら、やはり個人の才能よりも身分や家柄で評価される秩序にも反発することになっただろう。
1771年まで、3回にわたる父親とのイタリア旅行で、アマデウスは音楽の最先端を行くイタリアの事情に触れ、バロック音楽の技法や思想を学び、そしてオペラという総合芸術(演劇+舞台美術+音楽)を深く知った。
自分能力やセンス(ことにオペラ作曲)について、出会った多くの一流の音楽家たちから高い評価を得て、また自分の才能=可能性をも自覚した。