ザルツブルク大司教との関係がこじれた経緯について一言。
1771年、ザルツブルク大司教シュラッテンバッハが死去し、その後、後継者をめぐっての激しい紛糾や駆け引きが繰り広げられた。そして、すったもんだの挙句、オーストリア王室顧問会議の次席閣僚(副宰相)の息子であるコロレード伯爵が、大司教位を継承することになった。
おそらくオーストリア王権が大司教人事をヴァティカンに対して力で押し切ったのだろう。ザルツブルクは全面的にオーストリア王権に服属するようになった。
このときアマデウス15歳。
コロレードは、厳格なというか頭の固い大司教で、モーツァルト父子にそれまでのような自由な活動(異郷への演奏旅行)を認めなくなった。そして、ザルツブルクと大司教領での芸術活動に、前任者ほど気前よく金をかけなくなった。
アマデウスにも、大司教の従者(召使)としての務めを果たすよう執拗に求め、音楽活動を制約するようになった。
ところで、このことに関して、ヨーロッパ諸国家体系の形成史に強い関心を抱く私としては、ザルツブルクの地理的な位置、そしてその近隣の君侯との関係が大いに気になる。
ザルツブルク――「塩の町」という意味――は、その名のとおり、古くから岩塩の生産・供給地としてヨーロッパの主要貿易路に結びついていた。イタリア諸都市とも、そして西方にあるミュンヘン(バイエルン侯領)とも程近い。
古くから司教座都市として栄え、商業都市でもあった。ローマ教皇庁から見れば、中南欧の要衝として、近隣地方の君侯領主への抑えとして位置づけていた都市だ。
とはいえ、17世紀以降は、ことに近隣の政治的力関係によって(つまりは、近隣の有力君侯領主たちの力関係によって)誰がザルツブルク大司教の座におさまるか決まり、教皇庁は事後的に叙任して教皇の大使として追認するようになっていた。
この地方では、とりわけバイエルン侯とオーストリア王との力関係が決定的ではなかったか。
そこで、オーストリア王室の主要閣僚の家門がザルツブルク大司教に就任するということは、このとき、オーストリア王権による中南欧の政治的・軍事的統合がかなり進んできたことを意味する。
ザルツブルクはなお、独立の主権を持つ自治都市であり、大司教領はなかば独立の政治体=王国をなしていたが、この頃から、ヴィーン宮廷の影響を強く受けるようになっていたことを意味する。
言い換えれば、オーストリア王権と比べてバイエルン侯の権力はかなり分が悪くなっていたということだ。
前任者に比べて、コロレード伯が芸術に関しての財政支出を抑制するようになったとすれば、ザルツブルクは財政逼迫にあったという事情が背景にあるだろう。前任者が大盤振る舞いをしすぎて、宮廷財政が窮屈になったのか。
それもあるが、ヴィーンの王室に税や賦課金の上納を求められたためではないか、というのが私の憶測だ。
つまり、ザルツブルクと大司教領の安全をオーストリア王権(皇帝)が軍事的・政治的に保証する引き換えに、ヴィーンの王権の宗主権を認めて税=賦課金を納めるようになったのではないか。オーストリア王による集権化が進んだということだ。
その分、ヴィーンの宮廷の懐は豊かになり、権威は高まり、芸術活動は派手になる。ヨーロッパ各地から、皇帝ヨーゼフの恩顧を求めて芸術家が集まることになるだろう。
してみれば、アマデウスのヴィーン滞在は、状況判断としては、すこぶる正しかったということになる。
だが、ヴィーン宮廷の格下の君主ということになったザルツブルク大司教は、少ししぼんだ権威を補うためにも、金を使わずにモーツァルトの名声を利用したくなるだろう。
いきおいコロレードのアマデウスに対する態度も、頑なで切羽詰ったものになる。
そんな政治的環境が、1780年代のアマデウスの暮らしを取り巻いていたのではないだろうか。
青年アマデウスとしては、すこぶる窮屈な環境と感じただろう。
ただし、帝国観念を押し出したオーストリア王権ではあったが、それだけ、域内の統合が弱かったという現実の現われだったともいえる。
当時、「帝国」とは、別個独立の王権や君侯の寄せ集め状態に、外観上、上から権威を覆い被せて「大きなまとまり」に見せるための法観念だった。もっとも、当時のヨーロッパでは、その見え方が大いに効果を発揮していたのだが。