アマデウスとサリエーリとの関係のほかに、この映画が描くもう1つのテーマは、アマデウスの父親に対するコンプレクス、アンビヴァレントな心情だ。
愛息アマデウスは、レーオポルトにしてみれば、自らの英才音楽教育のなかから生まれた「作品」だった。音楽以外の領域では、つい最近までアマデウスは全面的に父親に依存していた。
この指導=被指導、依存=従属の関係を乗り越え、断ち切るために、すなわち自立するためにアマデウスは父親の心配りを振り切ってヴィーンにとどまり、そのうえ反対を押し切ってコンスタンツェと結婚した。
言ってみれば「近代的な自我」がアマデウスのなかに生まれていたわけだ。それは、彼の作品の独創性や自立性から見ても、言えるだろう。
それまで特権階級のその場限りの浪費物でしかなかった音楽を、楽想=世界観とともに作曲者の独自性や自立性を表現する「独立した作品」にまで決定的に高めたのだから。
とはいえ、当時は個人よりも家門すなわち家父長の権威が圧倒的に優越する世の中でもあったので、現代とは異なる親子の葛藤があったに違いない。
そんなこんなで、結婚後の息子の生活が心配で父親は息子が心配でヴィーンにやって来た。
というのも、ザルツブルク大司教コロレード伯は、好き勝手に振る舞うアマデウスに対して「怒り心頭」に達していて、父親に「何とかしろ」と圧力をかけていたからでもあったという。
また父親として、音楽の英才教育に熱心なあまり、世知辛い巷間で生き抜く術を息子に学ばせる機会がなかったことを知悉しているからでもあったのだろう。
で、ヴィーンに来てみると、案の定、アマデウスの生活、コンスタンツァとの家庭経営はうまくいっていないように見えた。とりわけ、わがまま娘に見えるコンスタンツェは、上手に家政を盛り立て切り盛りする手腕に欠けている、と心配になった。
そうなると、父親と妻との関係は険悪になる。2人がが対立しそうになるのを、アマデウスは間に入って何とか取り繕おうとした。
ところで、アマデウスの父親レーオポルト(ロイ・ドトライス)の顔つきと表情を見た瞬間、それはそれは驚いた。何と、あれはまさしくルートヴィヒ・ファン・ベートーフェンではないか!
私がベートーフェンの実際の顔つきと表情はこうだったのではないか、と思い描いていたイメイジとピッタリなのだ。頭脳明晰で、頑迷なまでの謹厳居士。そういう雰囲気が全身から漂ってくる。
人間としては少し、いやかなり軽いアマデウスの対極に位置する父親像。そして、モーツァルトを深く尊敬して、彼が創始した音楽の優雅さと諧調性そして構築性を体系的に完成させたベートーフェン。
つまりは、天才アマデウスを真ん中に挟んだ人物サンドウィッチ―レーオポルトとアマデウスとベートーフェンの三つ重ね――を見せようとしたのか。
私としては、キャスティングを決定した制作陣(監督か)に、ただただ脱帽する。