ところが、父親が仕える大司教の所領ザルツブルクに戻ると、モーツァルト親子の音楽活動の自由は著しく制約されることになった。権力者から見れば、才能ある音楽家をお抱えにして束縛することこそが「権威の発揚」なのだから。
そして、この都市にはオペラ劇場がなかった。アマデウスとしては、自分の才能を磨き試そうと思ったオペラ音楽の制作・発表の機会がないということだ。それはまた自立した作曲家としては収入の道がないということだった。
そこでアマデウスが大司教――大司教は伯爵に相当する身分、ザルツブルク大司教はコロレード伯位を与えられていた――から与えられた地位は宮廷楽団の楽士長( Konzertmeister )で、せいぜいヒラの楽団メンバーの現場監督を職務とする最下級の役職だった。
しかも、コロレード伯は、旧弊なカトリック教会の音楽観を頑迷に守り続けていた。音楽の新たな傾向に、きわめて否定的=保守的だった。
指揮者が楽団を指揮する現代の楽団のコンサートマスターではない。伝統はあるがやや鄙びた田舎都市の宮廷だけで自己完結する閉鎖的な狭いサークルに閉じ込められたのだ。
大司教の内々の夜会とか宴会用の食卓を飾り、少数の貴族の気晴らしに向けた室内楽(せいぜいセレナードとかディヴェルティメント、メヌエット)の作曲しか求められなかった。
そのほかにはと言えば、教会の行事のためのミサ曲(宗教音楽)の作曲が与えられた仕事だった。
アマデウスはすっかりくさってしまった。
息子の鬱屈を見かねたレーオポルトは、もっとましな地位を息子に身つけてやろうとしたのか、1777年、大司教に領外への旅行許可と宮廷楽団の辞職(むしろ一時的休職)を申し出た。
だが大司教は、旅にばかり出ている親子の態度にカチンときた。ザルツブルクの外に「出るのは自由だが、出たら帰国しても再任はない!。帰ってくるな」と返答したという。
旅行先は、ミュンヘン、マンハイム、パリだった。が、直前になって父親は病気を理由にザルツブルクに、つまりは副楽団長の職にとどまった。
結局、英才教育は受けたが、世間の荒波にもまれた体験に乏しい、言ってみれば、苦労知らずの思い上がった若者が、一人旅に出たわけだ。
ところが、音楽旅行の父親の連れとしてやってくる分には、迎える各地の貴族たち――誰もが財政は逼迫していた――も大らかに歓迎したが、見え見えの求職活動でやって来る若造にいい顔をするわけがない。
旅行の結果は散々だった。
とりわけパリでは、追い返されるような仕打ちを受けた。アマデウスの音楽はパリには高尚すぎたかもしれない。音楽はしょせん特権階級の浪費対象だったのだ。
しょげ返ってザルツブルクに帰還したアマデウスには、しかし、宮廷オルガン奏者の地位が用意されていた。以前よりも俸給がよかった。
レーオポルトの立ち回りが上手だったのか、コロレード伯=大司教にとっては、権威に箔をつけるうえで、やはり天才アマデウスの能力と名声の利用価値があったのか。
父親はアマデウスに、「人生はこんなものだ。当分おとなしくしていろ」とでも言い含めようとしたかもしれない。このときから、アマデウスにとって、自分の道=夢を追い求めるうえで父親は桎梏と感じられるようになった。険悪な関係になったようだ。
そんなおり、ミュンヘンのバイエルン選帝侯テオドール伯からオペラの制作・作曲の依頼が舞い込んだ。アマデウスは嬉々として、大司教から6週間の旅行許可をもらってミュンヘンに赴いた。そこでの処遇は悪くなかった。
けれども、好事魔多し。その年1780年、オーストリア帝国の名君女帝、マリーア・テレージアが没した。
コロレード伯はザルツブルク大司教の地位にあったが、もともと名目上はオーストリア王国の家臣なので、さっそくヴィーンに弔問に訪れた。そして、旅行許可期間を10週間以上も超過しても帰還せずにミュンヘンに滞在しているモーツァルトをヴィーンに呼びつけた。
1780年12月のことだ。
このときの経緯が、映画の冒頭の場面だ。サリエーリはアマデウスと出会うことになる。
ところが、ヴィーンにやって来たアマデウスは、そのまま翌年までヴィーンに逗留――そのまま死去する――ことになった。
そりの合わない、新任のザルツブルク大司教コロレード伯の手許を離れ、かつまた父親の影響からの離脱を試みたらしい。
ただしそ時代、家族は家父長の権威のもとにあったから、ことさらレーオポルトが権威主義者だったわけではない。むしろ、息子の将来を心配する近代的なやさしい父親だったとさえいえる。