アマデウスの前に立ちはだかったのは父親だけではない。音楽のスポンサーシップを握っていた王侯貴族の権力あるいは身分秩序もまた、音楽家の成功や立身出世を制約・束縛していた。
アマデウス・モーツァルトは王侯貴族(教会役員を含む)の権力にも苦しめられ、それに抗おうとしたのだ。
そして当時は、身分制度が執拗につきまとい、才能や実績よりも家柄やコネが何より物を言う世の中。
だが18世紀末は、フランス革命が起きたように歴史の転換期だった。モーツァルトは若者らしい反抗心・自立心と鋭い音楽的感性で、古い時代の秩序、そして古いタイプの音楽に反発していく。
英才教育で偏った生活を送ってきたモーツァルトには、世間の荒波に揉まれて、出世のために有力者になびく訓練も施されなかったのかもしれない。
他方で、この時代は音楽のスタイルの転換期でもあった。宮廷での豪華な行事に合わせたようなバロックからしだいに新しい音楽が生み出されていった。ヴィーン古典派の時代が始まろうとしていた。
活躍した時代が重なるバッハやハイドンやベートーフェンなどと並べてみると、物語や心情を直接に語るオペラよりも言葉のない器楽(オーケストラや合奏)の旋律やリズムそのものが物語や心情を表現するようになっていったように見える。
楽曲の美しさや物語性、設計思想が決定的に重要になっていった。
アマデウス・モーツァルトは変化の兆しを鋭敏に感じ取り、その波頭に立とうとしていた。
しかし、とりわけ「皇帝の都」ヴィーンでは、いまだ音楽は権力者の飾り物としての役割から抜け出せず、身分秩序という壁が成功への道を閉ざしていた。
アマデウスは時代と(それに従うことを勧める)父親に反発した。自分の生きる道を探そうとして苦悩する。
残された彼の音楽からしても、当然、そこかしこに過敏なほど繊細な感受性を備えていたに違いない。それが精神的な脆さにもつながったのかもしれない。
その弱さが、あるいは父親の手許を離れてから、アマデウスに重圧をかけ続けたのではないだろうか。
だから、30歳代半ば、年若くして世を去ってしまったのだろう。だが、自分が生きる道を模索して奮闘した彼は十分充実していたかもしれない。
さて、ここで音楽家としてのモーツァルト父子が置かれた歴史的・社会的環境を見ておくことにしよう。父と子はそれぞれに別の形で、音楽家としての成功を夢見て奮闘したのだから。
父親のレーオポルトは、1743年にザルツブルク大司教の宮廷楽団に第4ヴァイオリン奏者として雇われた。
その後、演奏技量が物を言ったのか、あるいは立ち回りがうまかったのか、1758年に第2ヴァイオリンの地位を獲得、63年には楽団の副団長の地位にまで登りつめたが、プロモウション(昇進)はそこで止まってしまった。
上昇志向の強いレーオポルトは、自分のザルツブルクでの出世の限界がそろそろ見えてきた1762年、幼いアマデウスを連れてミュンヘンに旅した。バイエルン選帝侯マクシミリアンの宮廷での演奏が目的だった。
ところで、この旅行のレーオポルトにとっての意味合いと、より広い歴史的な文脈での意味を読み取るために、当時のドイツ・中央ヨーロッパの政治的環境を押えておかなければならない。