〈アマデウス: Amadeus 〉とは、ラテン語で「神の寵愛を受けた者」という意味。「アマ:恩寵、愛、寵愛」+「デウス:神、ゼウス」という合成語。
父親レーオポルトがつけた洗礼名のギリシア語では、 Theophilus (テーオフィールス)。つまり、「 theo ( theus ):神、ゼウス」と「 philus :愛、寵愛」との合成語だという。
ドイツ語圏には、同じ意味合いで、ゴットリープ( Gottlieb )という洗礼名があるにもかかわらず、ラテン語とギリシア語で洗礼名を押し通したところに、レーオポルトの期待と上昇志向、気負いが現れている。
これを、まだ幼いモーツァルトに覚えさせ、親子いっしょの演奏旅行の先々で、幼子に自己紹介の口上として述べさせたようだ。
ただでさえ聴衆は、年端も行かない幼児がヴァイオリンやチェンバロ(またはクラヴィコード)、あるいはフルートを巧みに演奏する姿に驚嘆しているところに、ラテン語やギリシア語で自己紹介するのだ。「天才幼児」「天才少年」の名声は高まっただろう。
しかも、聴衆といえば、その当時、有力貴族や高位聖職者、そして王侯とその家族たちだったのだから、父親レーオポルトの得意やいかばかりだったか。
そう、レーオポルトは、おそらくヴォルフガング( Wolfgang :ドイツ語で「狼の道」つまり「王者の人生」、これまた期待を込めた名前)がわずか3歳になるやならずの頃に、鋭い音感(音楽聴力)と楽器奏法の理解力を垣間見たに違いない。
「この子は天才だ。よし、この道で出世の階段を駆け上らせよう。やがて、私は、将来、地位を得たこの子の父親として、名誉と権勢を獲得して左団扇だ・・・」なんて思ったかどうか。
全身全霊を打ち込んでの「英才教育」「天才教育」が始まった。
幼児もまた、玩具で遊ぶように音楽で遊び、頭脳明晰で独自の方法論、教育論を構築していく父親の薫陶を、期待以上に吸収して「わがもの」としていったようだ。
厳しい英才教育で押し潰されずに、音楽を心から好きになったという。その道が好きでたまらず、とにかくやり続ける、学び続ける、これが最高の才能だ。「好きこそものの上手なれ」だ。
・・・多くのモーツァルト伝は、そんなふうなことを語っている。
しかし、天才といえども、人間の脳のキャパシティにはおのずから限界がある。あるいは、限られた人生の時間では、経験や教育には限界がある。
アマデウスは幼少の頃から少年期、青年期の大半の時間を、父とともに演奏旅行で過ごしていた。短い生涯の3分の1の日数を旅で過ごしたという。
自宅はまちろん旅の空での宿でも、おそらくレーオポルトの厳格な音楽の教育指導を受けていたはず。
なにしろ、このレーオポルト、自分の息子に教えるためということで、音楽を幼児や少年に教えるための教程書(カリキュラムと課題、指導ポイントを系統的にまとめた)を編集したくらい、すごかった。
父は音楽の指導と理論の天才だった。
まあ当時は、もとより学校制度もまだ普及せず、少年期を同世代の子供たちと一緒に学校で過ごすというような環境はなかったのだが。それにしても、明けても暮れても「音楽、音楽」。
行く先々では有名な音楽家たちや有力貴族、王侯たちと接するわけだ。天才児としてチヤホヤされることもあったろう――半分は珍奇な見世物を見るような好奇心とともに。
音楽の天才児が育つ環境ではあったが、当時としての「普通の子供」の体験がないし、オトナの本音やいじましさ、世間の厳しさを身にしみて経験する機会はほとんどなかっただろう。
世間の荒波にはすべからく父親が立ちはだかって、「音楽家の促成栽培」のための温室に閉じ込め、そこではスパルタ教育。
アマデウスはレーオポルトがもうけた7人の子たちの一番の末っ子。
当時の衛生環境や医学、食料・栄養事情、住環境からすれば当たり前のことなのだが、この7人の子どものうち、無事成人するまで育ったのは、アマデウスと5歳年上の姉、ナンネアルの2人だけだった。
だから、レーオポルトが2人、ことに男子のアマデウスを「掌中の玉」として育て管理したことは、想像に難くない。
だから、《奇矯な天才児》が生み出されたのは、当然といえば当然。ということだろうか。
鍵盤楽器、弦楽器、管楽器、何でもござれ。そして、耳がものすごくいい。町のなかだろうと、教会聖堂のなかだろうと、劇場だろうと、宮廷だろうと、一度聴いた音楽は完全に記憶してしまい、宿屋や家に帰ってから、すらすらとスコア(楽譜)に記録してしまったという。