アマデウス・モーツァルトは、イタリアへの幾度かの旅行によってイタリアの音楽技術、バロック音楽の最先端の作曲術や演奏技法を学んだという。それが、彼の作曲の技法と音楽の構築性・諧調性に大きな飛躍をもたらしたといわれている。
基本的にクラシック音楽については門外漢である私は、モーツァルトよりもその前後、バロック音楽とベートーフェンの方が好きだ。
素人にもわかりやすいからだ、というのが私なりの理由だ。
モーツァルトは、自分の飛び抜けた発想法やら超絶的な演奏技法を(ひけらかすように)表現するために作曲したのではないか、と思うような曲を多く作っているような気がする。
頻繁に転調や変調をおこなう手法が目立つ曲には、私の頭はついていけない。彼の曲で好きなのは――というより何となく理解できそうなのは、、軽快なメロディよりは、幾分重厚で構築性が顕著な曲だ。
彼の楽曲を聴くと、いきなり曲想の中心に取り込まれてしまい、「魔術にはまったような」気になるのだ。騙されて酔わされて、夢中になり陶酔してしまうとでもいうように。
さて、モーツァルトは、バロック音楽の手法から、通奏低音とか対位法(1つの曲のなかで2つ以上の旋律を並立対置させ、重ね合わせて演奏する技法)のように、曲に重層的な厚みや複合性をもたせながら、旋律の流れと和音(共時的な和音と通時的な和音)の響鳴の両方を楽しませる方法を学んだようだ。
けれども、それを使いこなすような作曲の1歩前で、まだ若くして没してしまったことが惜しまれる。
その意味では、私にとって、モーツァルトはバロックからベートーフェンにいたる進化の歴史の「ミッシングリンク」となっている。理屈はわからないので、具体的な曲名で例をあげる。
たとえば、パッヘルベルの「カノン」とベートーフェンのピアノソナタ14番「月光」の第1楽章。この2つのあいだにモーツァルトの天性的創作が介在するように。
パッヘルベルの「カノン」では、
主題(Leitmotiv)となっている低音部の2つの小節のバス旋律が何度も何度も繰り返される(28回も!)。
すごいのは、通奏低音のような旋律を主題(主旋律)にしているところだが、これはおそらく、その上により高音の部分の装飾的な旋律を重ね合わせるための技術だろう。高音部を飾るヴァイオリンは、バスの響きに乗っかる形でさまざまな変奏を繰り広げていく。
まさに「カノン」という言葉が意味するように、宇宙の根源にある摂理ともいうべきシンプルな旋律が、神が与えた範律(カノン)のように単調に繰り返されていく。その基底の上で華麗に巧妙にヴァイオリンが星の輝きのような装飾旋律を組み立てる。
この変奏は、変光星のように、しだいに輝きの仕方を変えていく。
「壮麗なる単調さ」ともいうべき曲想だ。
これは、1つの立体的・空間的な構築物で、ゴティックの尖塔を下から見上げていって、視界がやがて天空に向かうというようなイメイジだ。
対するベートーフェンの「月光ソナタ(Mondscheinsonate)」
これも仕組みが「カノン」によく似ている。いや、複合性と構築性ははるかに高まっている。なにしろ、ピアノというスーパー楽器があるのだから。
でも、基本的な作りはよく似ている。
主題の旋律の上に、アルペッジォ(分散和音)の装飾が重層されている。
アルペッジォとは、和音を構成する各音を(同時にではなく)順番に時間的にずらして、つまり時間的に分散して奏でる奏法。もともとは、「ハープ(アルプ)を奏でるように」という意味だという。
弦と弦とのあいだの空間が広いハープの和音は、1人の奏者が弾くと、各音がどうしても時間的にずれて奏でられるので、こうした和音奏法をアルペッジォというようになったそうだ。
1台のピアノで、低音部の主旋律と分散和音の装飾部とを同時に重ね合わせて演奏するという発想はすごい。演奏技術の進歩のおかげだ。
もとより、「カノン」は弦楽器の重層だから、より複雑ではあるかもしれない。
けれども、ピアノ1台の演奏で、楽器の構成を単純化して、重層させると仕組みがより明白になって、迫力がある。
通奏低音と対位法という、ベートーフェンよりも150年近く前に生まれた技法が、より高い次元で再編成されているように思える。
だが、そうなると、このような進化史のなかで、ベートーフェン自身が目標にしたモーツァルトの位置はどうなるのか。
「フィガロ」とか「ドン・ジォヴァンニ」のなかでは、通奏低音=主題部の上に装飾音階の旋律を乗せた部分が、ところどころに見え隠れするような気がする。気のせいか。
この手法を取り入れた「古典時代」の音楽をそれ自体として創作することなく、暗示だけを残してモーツァルトは世を去ってしまった。であるがゆえに、ベートーフェンはあのように創作活動をしたのだろうが。
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