さて、男たちがすっかり落ち込みバンドが解散状態になっていたとき、妻たちは、尻に敷いてきた夫たちの音楽家としての才能や努力を見直し高く評価し始めていました。
町の美容院でのことです。
妻たちは、浮き浮きとしながらめかし込んで女っぷりを上げようと奮闘していたのです。ロンドンの決勝戦に押しかけようとしていたのでしょうか、美容院で髪や顔、肌を入念に手入れしようとしていました。それまでは、ブラスバンド活動にはあまり見向きもしなかったのに。
で、そんな彼女らの会話はというと、
「ねえジェイン、私この間、夫のバンドの追っかけをしてみて、すっかり考え方を変えたのよ。
だめ亭主だと思っていたけど、演奏しているときのジミーの姿――きりっとした男っぷり――と音色にすっかり惚れ直してしまったわ。ブラスバンドって素晴らしいわね、あんなに素晴らしい芸術が、こんなに身近にあるなんて。
これからは、バンドの追っかけが私の趣味になるわよ!」
「私もよ」
というようなしだい。
家庭を牛耳り「口さがない女ども」の情報発信力と世論形成力――噂話――は侮れません。女性は強い。それどころか、おそるべき組織力を持つようです。結束するとさらに強いのです。バンドの演奏に対する好評価と期待はまたたくまにバンドメンバーの妻たちに広まっていきました。つまり町の世論の多数派となったのです。
とはいえ、ロンドンまで金を使って押しかけるのは数人だけです。何しろ夫たちが職を失ったのですから。
皮肉なことに、炭坑が閉鎖されたあとの町でグリムリー・コリアリー・バンド(音楽)が占める役割は、決定的に転換したといえます。これまでは、炭坑労働者たちだけの仕事の余暇の趣味でしかありませんでした。ところが、今や町の産業経済の中心だった炭坑が失われてみると、ブラスバンドは町のアイデンティティの拠り所となったのです。
■ダニーの贈り物■
ダニーは依然として「要静養」で退院は数週間先まで許されそうもありません。断腸の思いでダニーは、決勝戦での指揮を諦めました。
しかし、バンドの優勝のために努力し続けていました。
そのために指揮者用の総譜を書き上げていたのです。
決勝での指揮は、ダニーの次にバンドのキャリアが長いハリーに委ねることにしました。そのためハリーは、練習のときに、ときおり自分の楽器の演奏をやらずに、和声を聴き取り、演奏で修正すべき個所を点検してダニーに伝える役をこなしていたのです。ハリーはバンドの全体(アンサンブル)をつかんでいます。だから、ダニーとしては、指揮者としてハリーを信頼することができました。
ハリーは優勝のために必要な奏法の要点や注意点をスコアにすべて書き込んでいったのです。それを、前日にハリーに手渡してアドヴァイスしました。
オーケストラにはコンサートマスター(コンツェルトマイスター)がいて指揮者を補佐して全体をリードしますが、ブラスバンドにも全体の演奏を主導し核となる音を奏でる人物がいるようですね。
バンド・メンバーたちがロンドンに向かうバスに揺られている頃、フィルを振り捨てて出ていったサンドラは、ある公園の遊具で長男と話していました。
男の子は、余命いくばくもないダニーのために、フィルが無理をしてトロンボーンを買い換えたことをサンドラに伝えました。そして、
「貧乏(貧しく侘しい暮らし)は辛いし、父親のフィルが暗い顔をしている(苦悩する)姿を見るのも辛いけれど、その父親の顔を毎日見ることができなくなったのはもっと辛いよ」と語りました。
10年前にフィルが組合の強硬路線にしたがってロックアウトに参加し、その結果、1年半も給料を得られなくなりました。サンドラは、そのときから始まった貧窮に疲れ果てていました。けれども、フィルの誠意や愛を疑ったことはありませんでした。フィルは子育てに熱心でした。しかし勝気なサンドラは、内気でおとなしいフィルに荒々しく感情をぶつけてしまいがちでした。
とっさに感情を爆発させて家を出てきたものの、子育てにはやはり夫の手が必要です。サッチャー政権ができて以来、住宅費(家賃)や生活費は高騰したため、ブリテンでシングルマザーが3人も子を抱えて仕事を続け生活するのは、非常に難しくなっているせいもりました。
フィルはやさしい夫、父親であり、すぐれた音楽家でもあります。子どもたちは父親に会いたがっています。
サンドラは、フィルとよりを戻してやり直そうと決意しました。
そこで、ロンドンに行って、子供たちと一緒に決勝戦でのグリムリー・バンドの演奏を聴くことにしました。