このサイト記事『マダム・スザーツカ』で、ブリテンの映画人は、特定の時代の情景を精密に描写することに強い関心を持っていることについて述べました。
この映画でも、この傾向がはっきりしています。
物語は実在の炭坑町グライムソープ Grimethorpe のブラスバンド、《グライムソープ・グリムリー・バンド Grimethoprpe
Colliery Band 》の経験を下敷きにして、その時代の社会・経済状況、人びとの心理などを映像物語として再現しているということです。
『マダム・スザーツカ』は1980年代のロンドンを舞台にしていましたが、『ブラス!』は、その時期の直後、1980年代後半から90年代のヨークシャーの地方都市のできごとを描いたものです。ほぼ同時代で、ブリテンの産業空洞化とロンドンや地方諸都市の荒廃を描いています。
『マダム・スザーツカ』では、1980年代にロンドン旧中心街の空洞化や荒廃が進み、治安が悪化して安全な生活環境を奪われた住民たちが、政府や市行政機関に誘導されて――土地や建物を売却して――立ち退いていく様子が描かれていきます。住民から土地や不動産を買い取ったのは都市再開発を担うディヴェロッパー企業群で、そういう企業群に資金を回して再開発を誘導したのは、シティを拠点とする金融資本でした。
つまり、政府や市政庁は都市中心部の空洞化や荒廃・治安悪化を事実上放置し続け、その結果として住民が追い立てられると、そこに金融資本によって資金を供給されたディヴェロッパーや不動産会社による再開発を展開して、高く売れる建物やオフィスをつくり、新興IT企業や金融関係のオフィス、新たな富裕層の住宅を誘致した。
ロンドン中心部のあの大観覧車やロケット型の構造ビルは、ロンドンの再開発と不動産バブルの「記念碑」ともいうべき建築物なのです。
その文脈では、この映画でも、やはりサッチャー政権の「弱者切り捨て」政策が継続していて、弱小製造業とか地方都市経済の切り捨て、ロンドンを中心とする金融・貿易サーヴィス業に国民的資源を選別・集中させる政策の最盛期と最終局面とを描いています。
だから、ロンドンの旧中心街でも近隣社会の荒廃が進んでいた時期を描いた作品が『スザーツカ』で、地方都市と斜陽産業を切り捨てて、地方都市の自治能力・財政基盤がいよいよ追い詰められていく局面を描いた作品が『ブラス!』ということになるでしょう。
同じ音楽の世界を描いたもの――滅びゆくものへのオマージュを込めた作品――だが、向けられた視角の先に描かれる対象はずいぶん異なります。
スザーツカはロシアの有力貴族の末裔で、経済的に困窮し没落しつつあるエリート階級に属していました。これに対して、グリムリー・コリアリーは炭坑産業の労働者階級(下層階級)が結成するバンドです。
しかし、どちらも政治や金融の権力からは疎外され、周縁化されている人びとという点では共通しています。
そして、主人公は自分たちが生み出す音楽に自己の尊厳と誇りを持っていて、演奏=音楽活動が自分たちの存在を表現していて、それがまた社会の支配的風潮へのプロテストとなっている点でも、共通性があります。
だが、逆風に向かって毅然と立ち続けることは、逆風にもろに身をさらすことにもなります。吹き飛ばされまいとあがき、もがく姿が描かれることになります。
もちろん、『スザーツカ』ではピアニストの世界の物語が中心で、ロンドンの住宅街の荒廃は後景としてごく部分的に描かれるだけであるのに対して、この作品では、バンドメンバーの苦悩を描くことで、政権と経営側の理不尽な姿勢への批判が前面に出ています。この点では、描写手法には大きな違いがあります。
だが、政治経済の動きのなかで置き去りにされ、失われていくものに対する共感が強いということでは共通しているように思えます。
ともに音楽芸術の美しさと世間の風の冷たさを淡々と描いています。けれども、このような事態を題材に取り上げた制作陣のメッセイジは明確です。それゆえ、この映画は、後世に残すべき優れた歴史的記録であるでしょう。
ブリテン王国のヨークシャー南部の小都市グライムソープがたどったのと似たような歴史的経過を、日本では北海道夕張市が経験しました。夕張市は、これまた炭鉱業の没落・衰滅によってコミュニティ存亡の危機に立たされ、著しい人口減少と税収の落ち込み、市の借金の膨張によって市財政は破綻し、「再生再建団体」となりました。
夕張市は「バブル経済」――市の財政基盤を無視した放漫経営による財政赤字累積がひどかった――崩壊の直後に財政危機が明らかになったので、グライムソープよりも地方都市として荒廃への下降度合いは、ずっとひどかったかもしれません。
そんなわけで、私としては『ブラス!』をここで取り上げることで、コミュニティ維持のために苦難している夕張市民にささやかな連帯の気持ちを示そうと思います。
| 前のページへ |