さてある日、エリンは事務所に遅くまで居残って資料を読んでいた。
そこに、若い夫婦がやって来た。彼らは、トムとマンディ・ロビンスンと名乗った。2人はすでに住宅をPG&Eに売却していた。以前は、ドナとピートの家のはす向かいの家に住んでいた。彼らは、ドナからヒンクリーの土壌・地下水汚染の深刻さについて電話連絡を受けたのだという。
この夫婦には大きな気がかりがあった。マンディはこれまでに子宮の障害または異常が原因で6回も流産を繰り返していた。しかも、彼らが以前住んでいた住宅の庭で飼育していた鶏には、深刻な先天性畸形と異常死が続出したのだ。獣医によれば、産卵時にすでに深刻な遺伝子異常が起きていたようだ。
6価クロムの毒性と催奇性(ミューテイション)が如実に示された事実だ。ロビンスン夫妻は、こうして死んだ13頭の鶏の写真を持ってきていた。
エリンは、写真を証拠として預かった。
その後、ジェンセン夫妻宅でロビンスン夫妻も交えて、PG&Eとの交渉をめぐるエドワードの方針の説明がおこなわれた。1戸当たりの住宅買取り価格には医療費を含めて、100万ドルくらいを見込むことにし、エドワードに交渉・契約に関する全権限を委任する契約書に両夫妻が署名することになった。
そのとき、ピートがこの契約交渉にはどれくらいの費用がかかるのかを質問した。エドワードは、法律事務所としては成功報酬として成約額の40%を受け取ることになると返答した。契約書を手にしたピートの手が止まった。
「そんな大金を支払う力はない」ピートは愕然として言いだした。クライアントの4人は、経費の額があまりに大きいことに、驚き顔を見合わせた。
その場の雰囲気を察知したエリンが沈黙を破った。
「40%?!
そうよね、このタヌキおやじは濡れ手で粟で、クライアントの受取額から大金をふんだくるのよね…と私も思ったわ。
で、委任条項の金額に達しなかった場合の弁護士の取り分は、って聞いたのよ。
エド、いくらもらうの?」
「成功しなかった場合は、私の取り分は、何もなしだ」とエドワード。
エリンは補足した。
「この交渉のあいだにかかる経費は、すべてエドがまかなうのよ。だから、あなたがたの負担はないわ。だから、エドはリスクと費用をすべて抱え込む、大博打を打つわけね」
一同はようやく納得して、全員が委任契約書に署名した。弁護士は成功報酬を当てにして先行投資することになるというわけだ。
この場面には、アメリカの訴訟制度の際立った特徴がある。
人の生命や健康が直結する深刻な事件でも、人間の尊厳と人権の擁護のために訴訟を遂行する弁護士にとって、その活動は多くの場合、リスクとコストがかかる投資事業ないし投機行為なのである。営利ビジネスの原理が貫かれるのだ。
裁判にすら金融市場の原理が堂々と持ち込まれているのだ。営利企業と同様に、弁護士は引き受けることができるコストとリスクの範囲内で交渉や訴訟に臨むのだ。社会の規範の形成においてすら、経済的能力や金融権力の大きさが物を言うというわけだ。
その結果、生態系や環境がどれほど深刻な打撃を受けようと、人間の尊厳や権利がどれほど踏みにじられようと、また人権派の法律家がどれほど切歯扼腕しようと、訴訟のリスクとコストをまかなう資金がなければ、民事ないし行政に関する訴訟・法廷闘争としては動かないのである。
ただ救いは、弁護士が過剰であることから、生き残りのために、陽のあたらない事件にも光をあてて、訴訟に持ち込む弁護士もわずかにいること、そして、クラスアクションの形で法曹界を動かすノウハウがあることだ。