情報局内の フランス潜入作戦が失敗した直後のある日、ホワイトホール(首相府)では軍情報部各部門の幹部が集まって会議が開かれていた。そこでは強烈な個性を隠そうとしない2人が対立していた。
一方は特殊作戦指導部SOE―― Special Operations Executive ――の指揮官、ジェイムズ・ウィンティンガム中佐で、もう一方はMI5セクションDを率いる少将、ジャイルズ・メッシンジャーだ。たぶん2人とも名門貴族で、子どもの頃から頭脳明晰であるがゆえに、いつでも他者に優越していたいという願望を隠そうとしない傲岸な人物だ。
とりわけ、メッシンジャー少将のSOEに対する敵愾心は尋常ではなかった。背景事情はこうだ。
ドイツとの開戦後、不利な戦況に立たされ続けていたブリテン政府は1940年6月、危機的状況を大化するために軍情報部の組織体制を再編した。
MI5を縮小して、新たにSOEという部局を設立し、MI5セクションDに鉈をふるって人員と予算を回したのだ。
自らの権限を縮小され、人員と財源を奪われたメッシンジャー少将は憤懣やるかたなく、反感と憎悪はあげてSOEに向けられることになった。少将は部下をSOEに潜り込ませ、その粗探しをしていた。もちろん、SOEの作戦の失敗や齟齬を暴露し、この新部局を解散させてMI5の人員や予算の規模を回復させようと躍起になっていたからだ。
少将はSOEの活動を妨害するための横槍を常に打ち込んでいた。たとえば、SOEがナチス占領下のヨーロッパに工作員を送り込もうとするたびに、少将は当てつけのようにセクションDの作戦を用意して、船舶や航空機を押さえることで、SOEには船舶や航空機を回せないように手配していた。
まだ30代で中佐になったウィンティンガムは同世代のなかでは出世頭で、経験が浅いわりに生意気だったから、60代のメッシンジャー少将
一方、発足から7か月でいまださしたる実績のないSOEを率いるウィンティンガムは、功を焦って、これまでに2度も作戦を強行して失敗していた。
最初にポーランド、次いでチェコスロヴァキアに抵抗勢力を支援するための工作員を送り込んだが、潜入は失敗した。
中佐としては、そんなときにフランスへの潜入作戦の失敗をメッシンジャー少将に知られるわけにはいかなかった。 しかも、爆死したファクトゥールという工作員は、メッシンジャー少将のひとり息子、ウィリアムだった。
暗号名をファクトゥールとしたのは、フランス語のファクトゥールは、メッシンジャーとよく似た発音の英単語メッセンジャーにかけた洒落によるものだった。
少将からすると、ただでさえ気に食わないライヴァル、ウインティンガム中佐の穴だらけの作戦のせいで、大事なひとり息子が殺されたことを知ったら、名門貴族としての政府や議会、軍部への影響力をSOE解体のために全面行使するであろうことは明白だった。
中佐は新部門の実績を上げようと躍起になっていて、そのせいで杜撰な潜入作戦を強行したのだった。