その日の午後、フォイルはロンドンのダウニング街のある建物を訪れた。義理の兄弟のハウワード海軍中佐に会うためだ。面会の目的は、中佐を介して海軍への転属を打診するためだった。
フォイルが敏腕の捜査官であることは政府や軍の各部門に広く知られていたことから、その海軍中佐は、知り合いの海軍提督ノーブルが率いるリヴァープールに本拠がある情報部門にフォイルを推薦するつもりだった。そして、提督からの内諾をすでに得ていたようだ。
ところで、ロンドンの官庁街までクルマでフォイルを送ってきたのはサマンサだった。だから、フォイルが警察を辞めて軍に転職しようという気持ちなのを知ることになった。
愛らしい見かけの割にお転婆の――能動的な女性である――サマンサにとっては、彼女の個性と能力を評価してときには運転手という職務を越えて捜査に協力させてくれるフォイルは理想の上司だった。だから、フォイルが警察から去るのは耐えがたかった。
ロンドンからヘイスティングズへの帰途、サマンサはフォイルに警察を辞めないでほしいと訴えた。それが無理だと知ると、「なら、私もあなたの部下として一緒に転属させてください」と頼み込んだ。
彼女の目から見ると、フォイルとサマンサ、そしてミルナーは、このところ数々の事件を解決して、いわば理想のティームになっていた。ところが今、フォイルが去ろうとしているのは悲しかった。
しかも、ミルナーも戦場から帰還後、妻との関係がすっかりこじれてしまい、妻は生家に帰ったまま別居生活になっている。そのため、彼はヘイスティングから別の場所に引っ越そうと考えている。仕事も変えようと思っているらしい。
戦時統制法に違反する闇市場での商品の横流しや闇販売などケチな事件ばかりを捜査することに、フォイルもミルナーも倦んでいるのかもしれない。
そんなミルナーの苦悩を、サマンサは街のレストランで聞くことになった。
彼女にとって理想の職場が、今まさに消え去ろうとしているのだ。
ところで、フォイルとミルナーは先頃、フェナーという雑貨商を戦時価格統制法違反で逮捕した。闇取引で仕入れた電気製品を不当な高価に販売して、利益を得たという嫌疑だった。
時間をかけて捜査したものの、闇市場で商品を仕入れた証拠がなかった。仕方なく、フォイルはミルナーにフェナーの釈放を命じた。もっとも逮捕して立件しても、5ポンドの過料を払えば釈放される程度の軽犯罪でしかないのだが。
フォイルもミルナーもこんな事件ばかりを追いかける毎日にうんざりしていた。
そのフェナーは釈放された日の真夜中、店の前に停めたクルマに荷物を載せたときに、向かいの空き店舗の横に不審なクルマが停車したのを見て不審に思って近づいたところ、後頭部を殴られて昏倒してしまった。
それから数日間、フェナーの姿を見た者はいなかった。 彼は事件に巻き込まれたのだ。