ある日、ヴィンセントはアントニオの優越感に挑戦するような態度を示した。アントニオは優劣の差を見せつけるために兄に「海泳ゲイム」を迫った。だが、ヴィンセントは怯まなかった。
2人は海辺に行って服を脱ぎ捨てて泳ぎ出し始めた。
このとき、ヴィンセントには「失うもの」がなかった。そして、家族からも完全に孤立して、自分だけを頑なに信じるしかなかった。ところが、これから「エリートの人生」が控えているアントニオは、失うものが多すぎた。それが限界までの挑戦よりも前に、結果を恐れる畏怖をもたらした。
アントニオは、帰りの体力の温存を過剰に意識した。
対するヴィンセントは、帰りの体力なんか気にならなかった。
というわけで、ヴィンセントはどんどん沖まで泳ぎ続け、アントニオは畏怖によって精神と体力を消耗して身体が硬直し溺れかけた。ヴィンセントは泳ぎ戻って、アントニオを抱えあげて海岸に連れて帰った。ヴィンセントの圧倒的な勝利だった。
その日、ヴィンセントは家を捨てた。バッグ1つの荷物を手に家を出た。それは、家族とともに自分の出自(生まれと経歴)を捨て去ることだった。
だが、社会では、個人の遺伝形質を瞬時に判別する装置システムがいきわたっていた。ヴィンセントが名を捨て、家族を捨て、出自を捨て去っても、彼がインヴァリッドだという生体的個性は執拗について回ることになった。
遺伝形質がインヴァリッドで、しかも強い近視のヴィンセントは、世間で評価の高い仕事にはつけなかった。結局、清掃会社に勤務することになった。そして皮肉なことに、宇宙開発企業、ガタカの建物・施設の清掃作業を請け負うことになった。
ガタカの宇宙ロケット・プラットフォームからは、定期的にロケットが発射されていた。目的地は、土星の衛星タイタンだ。この企業は、目下、土星の衛星の開発をめざしている。そのために、知能が優れ、身体能力が高い若者たちをヴァリッドのなかから選抜して、探査と研究開発を宇宙の最前線で担う宇宙飛行士を育成していた。
ヴィンセントは床磨きや窓拭きの仕事をしながら、ガタカのすばらしい研究・訓練設備を間近に触れることになった。宇宙に飛び出したいという、子どもの頃からの願望が抑えがたくなっていった。しかし、今のままでは宇宙飛行には絶対になれない。そもそも一般事務労働や補助作業をこなす一般従業員としてすら、ガタカに勤務することすらかなわない。
そこで、ヴィンセントはある決断をした。
ヴァリッドの身分を買って、その人間になりすますのだ。
どんな社会にも、特権的地位を手に入れるための不正手段というか、バイパス(抜け道)がある。利潤を目当てに虚偽の身分や地位、パースナリティの売り買いを仲介する闇のビズネスが息づいている。
ヴィンセントは、噂で聞いたこの闇商売へのコンタクト経路を見出して、契約を申し入れた。契約とはこういう仕組みだ。
ハングリー精神を持つ――つまりは刻苦精励の上昇志向=意欲に燃える――インヴァリッドが、ある事情でもはやヴァリッドとしてのエリートコースから離脱した人物から身分とパースナリティを譲り受ける。そのインヴァリッドは、ヴァリッドとしての偽りの身分・立場を利用しながら、高い社会的地位や収入を得るようになると、その報酬のかなりの割合を、この闇のビズネス業者に支払うことになる。
ヴァリッドとしての身分やパースナリティを手放した人物には、それなりに高額の「譲渡金」や「年金」が代償として支払われる。