ユージーンに扮したヴィンセントが殺人現場の部屋の卓上に落とした睫毛は、警察によって証拠として収集され、生化学的解析に回された。その結果、睫毛の遺伝子情報から、それがヴィンセント・フリーマンという名のインヴァリッドのものであることが判明した。
警察の捜査によると、ヴィンセントは数か月前までガタカのオフィスの清掃を請け負っていた清掃会社の従業員だったが、その後失踪した若者であるということだった。
現場での証拠収集や地道な捜査を重んずる捜査官は、この睫毛が容疑者のものである可能性が高いと判断して、その意見を上司のアントニオに報告した。だが、アントニオは、ヴィンセントが清掃作業をしていたときに落としたものではないかと問い返した。
そして、部下の捜査官のヴィンセントを容疑者とする意見に対して、アントニオは疑問をぶつけた。
これに対して、捜査官は反論した。
「このオフィスの行き届いた清掃状態からすれば、そんなに以前のゴミが残されているはずがない。だから、この睫毛はつい最近、つまり殺人事件のさいに現場に落とされた可能性が高い。だから、ヴィンセントが容疑者である可能性が濃厚です」
この刑事は、その後も、ヴィンセント容疑者説の線で捜査を進めることにした。
アントニオは混乱に陥った。
というのは、インヴァリッドで体格や知的および精神的能力においてヴァリッドに比べて著しく劣る兄、ヴィンセントが、清掃員としての作業以外でこのオフィスに入り込むことはありえないからだ。入館の際に、インヴァリッドはゲイトの装置によって排除されるから、オフィスには入ることはできない。この面でのセキュリティは万全のはずだ。
だとすれば、ヴィンセントは変名を使って、ヴァリッドとしての(あるいは同等以上の)能力や才能、業績を評価されて入館を公式に許可されていることになる。遺伝形質によるエリート選別主義が徹底されているガタカで、そんなことはありえない。
だとすれば、なぜヴィンセントの睫毛がオフィスに残されていたのか。
疑問は募るばかりだった。
そこで、この段階ではアントニオは、捜査官たちに「ヴィンセント容疑者説」だけに拘泥せずに広い視野で捜査を続けるよう指示した。
しかし、それにしても、遺伝子情報偏重気味のこの時代だから、警察は遺伝子情報から、ヴィンセントを最有力の容疑者として指名手配した。
おりしもその頃、ガタカの事務部門に勤務する妙齢の美女、アイリーーン・カッシーニが、(ヴィンセント扮する)ユージーン・ジェローム・モーロウに魅力を感じて接近しようとしていた。
彼女はインヴァリッドだったが、知能や身体的能力の優秀さで特別にガタカの事務部門に雇用されていた。だが、自然出産だったことから、遺伝形質から「劣った因子」が除去されていないと評価されていた。
当局による遺伝子解析によれば、アイリーンの遺伝形質には心臓疾患の発症の確率が10%だけ存在すると判定されていた。逆に言えば、その遺伝形質が発現しない確率が90%だったのだが。遺伝形質があたっとしても、それを発現形質にしるプログラムが起動しなければ、つまり起動しないような生活(食習慣、訓練=運動、ストレス蓄積の解消)を送れば、問題ないわけだ。
だが、妊娠・出産形態に関して遺伝子的問題が生じる確率が少しでもあれば、インヴァリッドと決めつけられて、人生のコース選択の幅は自動的に狭められてしまう。遺伝情報を偏執的に信仰するレジーム――人種や身分・階級・家柄などに代わって遺伝子による差別を強制するファシズム――は、人びとの職業やキャリアを拘束しているのだ。
優勢主義思想はファシズムと不可分らしい。ナチズムには非科学的な人種主義的優生主義思想(妄想)が絡みついていた。たとえばヒトラーは自分の外見上の劣等感の裏返しとして、「金髪・緑の瞳」という北欧風ゲルマン族の外見(特殊な発現型の遺伝形質)に妄執的な憧憬を抱き、最優等の民族的人種的資質と見なしたという。
もっとも、思想を問題にするレヴェル未満だったとも言える。ヒトラーは自己の劣等感を政策に露骨に持ち込む知性に欠けた短絡的な人物だったようだ。画家としての能力の欠如による劣等感の裏返しとして、彼自身の理解を超えた抽象画やキュービズム、象徴主義などの前衛的な絵画や彫刻を破壊・焼却させた。