ユージーン・モーロウの遺伝子記録はガタカにとっては、申し分のないものだったから、すんなり採用された。ヴィンセントは、こうしてガタカの従業員として、ユージーン・モーロウとしての虚偽のパースナリティを演じ続けながら、宇宙飛行士という目標を追いかけることになった。
だが、生化学などの科学技術が高度に発達した時代、しかも最先端テクノロジーを担う企業のなかでは、ヴィンセントは自分自身の遺伝子や生体反応を完全に消去してユージーンとしての痕跡を残さなければならなかった。
企業の建物や施設のなかには、インヴァリッドのヴィンセントである証拠となるものは、髪の毛やフケ、体毛、皮膚の欠片(垢)など、どれ1つ――少なくとも解析できるような試料となりうる分量・形状を――残すことは許されなかった。
そのため、ヴィンセントは出勤前に身体中を洗浄し、角質化しうる皮膚をこすり取り、体毛を削ぎ落とし、毛髪が落ちないように整えなければならなかった――事実上は不可能だが、物語の進行上、そうだとしよう。
そして、企業内の自分の席やコンピュータ端末(キイボード上など)に落とすべき体毛やフケ、皮膚の欠片などは毎日、ユージーン自身から提供してもらった。もちろん、入館手続きゲイトでの血液検査――人差指の先端に小さな注射針を打ち込んで採血して瞬時に判定する――のための血液や薬物検査用の尿も提供してもらった。
ヴィンセントは毎朝、人差指の先端(腹側)にユージーンの血液1滴を入れた人口皮膚を貼りつけ血液検査に備え、ユージーンの尿を入れたプラスティック製の袋を大腿に取り付けて採尿検査に備えた。
このほかに、電気シェイヴァーについた髭や皮膚の滓も。
ヴィンセントは、体毛や皮膚の欠片(フケ)の入った袋を上着のポケットに忍ばせた。社内でコンピュータを使用したのちに、キイボードなどを拭ってから、そういう残滓をそれとなくまき散らして、ユージーンとしての存在証拠を残していた。
だが、運動能力や知的能力については、ほかならぬ自分自身の能力を訓練し研ぎ澄ませて、天才児=ユージーンにふさわしい成績を示すしかなかった。眠るとき以外は、鍛練と刻苦精励の毎日が続いた。ほかならぬ自分の目標のためだったから、ヴィンセントは苦痛を感じることもなく努力を続けた。
その結果、ガタカの同期生のなかでは、成績において抜群のトップクラスに居座り続けることができた。これは、まぎれもなくヴィンセント自身が達成した成果だった。とはいえ、インヴァリッドのヴィンセントとしての成績ではなく、虚偽の人格=ユージーンとしての成績だった。
だが、ヴィンセントはユージーンよりも数インチ身長が低かった。そこで、下腿の長さを数インチ伸ばすための骨継ぎ足しの手術をおこなって、体形を近づけた。この時代には、専用の器具があって、ひどい苦痛なしに技術があればどこでも手術ができるようだ。ヴィンセントに手術を施したのは、闇の仲介業のセイルスマンだった。
それよりも大変だったのは、ランニングマシーンによる持久力測定だった。50キロメートルジョギングしたときの心脈を測定するのだ。
ユージーン・モーロウは驚異的な心肺能力の持ち主だったから、50キロメートルの持久走のあとでも、脈拍数は普通の人間の普段とさほどの差はなかったのだ。
もちろん、ヴィンセントは毎日の厳しい訓練によって、長距離の持久走に耐えることができた。しかし、心臓は早鐘のようなペイスで拍動を刻むことになる。とても、会社内の装置の測定には堪えられない。
そこで、ある日、ユージーンが自宅で車椅子での運動後の心電図デイタを記録保存しておいて、ヴィンセントに渡した。このデイタを胸に貼るタップにセイヴし、これを測定マシーンの端末につなげる回路に接続して、偽の心電図デイタを送り込むことにした。
心脈測定器のスコウプには、長距離走のあとでも落ち着いたパルスが描き出されていた。
これを見て、監督者は持久走訓練を終えるように指示した。
だが、ヴィンセントの心臓は限界近くに達していた。
外観は落ち着き払って、ロッカールーム個室に戻ってから、ヴィンセントは咳き込み、むせるように激しい息遣いを繰り返した。
脈拍は恐ろしいほど多くなっていたが、とにかく持久走には耐える体力だけは身についた。
こうして、人格の偽装は厳しい訓練による身体の改造だった。むしろ偽装は「安易な道」ではなく、大きな苦痛と努力をともなう進歩と成長を要求するものだった。