その日、ヴィンセント包囲網は一段と狭められようとしていた。
ガタカの施設内でジェロームに扮したヴィンセントが飲んだ飲み物の紙コップが、警察の捜査陣によって確保されたのだ。
ヴィンセントが空の紙コップの捨て場所を探していたとき、清掃係員――ヴィンセントが以前勤めていた清掃会社の従業員――が気を利かして、「ゴミの始末はお任せください」と言って、紙コップをヴィンセントの手から取り上げてしまったものだ。その清掃係員は、ヴィンセントのかつての上司だった。
その清掃係は、ほかのゴミとともに紙コップをビニル袋入れたのだが、その袋を、警察が証拠物品の収集だといって取り上げてしまったのだ。
その紙コップに付着した唇の細胞破片あるいは唾液から、ヴィンセント・フリーマンがつい最近、その建物にいたことが判明した。捜査官は、この鑑識結果をアントニオに報告した。
だが、アントニオは最初のうち、その鑑識結果を信じなかった。
インヴァリッドのヴィンセントが、誰かのパースナリティを偽装してエリートとして振る舞っているとういうことだ。つまりは、ヴィンセント自身がそれだけの知的・身体的能力を発揮しているということだ。
だが、少年時代を同じ家庭内で過ごしたヴィンセントを知るアントニオには、兄がどれだけ努力しても、ヴァリッドのエリートに伍してこの超エリート企業で勤務しているとは考えられなかった。
というのは、ガタカ施設への入館のさいに血液検査を受けなければならないし、さらに施設内での日々の訓練や課題に対してはインヴァリッドの知力・体力では対応できるはずがないからだ。
■血液検査■
しかし、捜査官は鑑識結果を根拠として、ガタカの内部に身分詐称したヴィンセントが潜んでいるから、もっと厳密な血液検査として腕から血液試料を採取する方法の実施を要求した。アントニオは躊躇した。
宇宙船の発射まであと3日しかないからだ。血液検査によって、宇宙飛行士候補生やトレイニーを何時間も拘束すれば、ガタカの打ち上げ作業の日程がさらに押し詰まることになり、ガタカの指導部は強い反発を示すだろうからだ。
とはいえ、殺人事件捜査の必要性からして避けられない。
というわけで、翌日、血液検査が始まった。
ヴィンセントの番が来た。
ヴィンセントは注射針が刺された位置が悪くて激痛が起きたふりをして、体をよじり、その間に、偽の血液シリンダーに置き換えて、危機をやり過ごした。
というわけで、厳密な血液検査によってもガタカ内部からはヴィンセントは発見されなかった。捜査官は再度の検査を要求したが、アントニオは突っぱねた。「もっと地道な捜査で証拠を収集しろ」と命じて。