ある日、アイリーンはユージーンの机の引き出しのなかを探り、櫛に巻きついている髪の毛を持ち去った。それを解析試料として、遺伝情報の解析センターに持ち込み、解析を依頼した。
このセンターは街のなかにあって、顧客=一般の人びとに遺伝情報の解析サーヴィスを提供している。そこには、社会のすべての成員の遺伝情報が集積・蓄積されたデイタベイスがある。人びとは、遺伝形質を調べたい人の身体組織や細胞の欠片を持ち込んで解析を申し込む。すると、瞬時に遺伝情報が解析されたうえに、対象者をデイタベイスのなかから抽出して、あらゆる遺伝情報のリストをプリントアウトしてくれる。
アイリーンが調べたのは、ヴィンセントが本物のユージーンから提供してもらった毛髪を櫛に絡ませておいたものだった。だから、解析結果として、ヴァリッドのなかで飛び抜けて優秀な遺伝形質を備えたスーパーエリートの遺伝情報が提示されたのだ。
ヴィンセントは、アイリーンが自分に関心を寄せていることに気がついた。
だが、彼女の関心は好意や憧れとともに、ヴァリッドとしての劣等感(インフェアリア・コンプレクス)が絡み合った複雑な心情をともなっていた。
ある日の休憩時間、アイリーンは屋上広場でロケットの打ち上げを眺めていた。彼女がしばしばロケット発射シーンを眺めているのを、ヴィンセントは知っていた。噴射炎を噴き出しながら天空に向かって飛び立つロケットを半ば茫然と眺めるアイリーンに、ヴィンセントは声をかけた。
「あなたは、ときどき飛び立つロケットを眺めているね」
「私には届かない世界だわ。私はインヴァリッドなのよ。調べればすぐにわかるわ」と言って、アイリーンは髪の毛を1本引き抜いてヴィンセントに渡した。
だが、ヴィンセントは、その髪の毛を風にかざして飛ばしてしまった。
「遺伝情報がすべてじゃあないさ。強い望みや意思、努力こそが結果を生み出すのさ」とヴィンセント。
「あなたは、ヴァリッドのなかでもスーパーエリートだから、そんなことが言えるのよ。インヴァリッドは入り口にも辿り着けないわ」とアイリーンは反論した。
ヴィンセントには返す言葉がなかった。事実を語るわけにもいかないからだ。
遺伝形質に対する妄執的な信仰が権力序列と階級格差の根源にある社会のなかで、ヴィンセント扮するユージーンとアイリーンは差別の壁を隔てて向き合うことになった。だが、ヴィンセントはインヴァリッドであって、偽装=虚偽の仮面をつけてヴァリッドの側に立っているにすぎない。