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アンブロジアーノは、こうした出来事のたびに闇の資金が流れる地下水路の(主幹的な)役割を果たしていたと見られています。
とりわけ、共産党が大躍進した1976年、そして次の79年の総選挙では、キリスト教民主党から社会党にまで、選挙資金提供と買収工作が(返済無期限の融資)が、あたかも通常の商取引・融資のように公然とおこなわれました。
1980年、この複合謀略につながる不正金融取引が、ルクセンブルクにある小さな商社(資本関係では実質的にアンブロジアーノの子会社)の倒産劇から始まる金融破綻をきっかけに発覚したのです。
イタリアはもとより世界を揺るがす大スキャンダルとして耳目を集めることになりました。
イタリア政界では共産党の影響力が飛躍的に拡大し、それに押されて社会党も政権や財界の腐敗やマフィアも絡んだ組織的謀略を追及し始めました。
それまでアンブロジアーノなどの保守的な銀行や経営者家系、大コンツェルンの資本支配のもとにあった新聞社、放送局も報道姿勢(編集権)を自立化させ、疑獄や醜聞の調査、批判的報道に力を入れるようになりました。
1981年には、すでに政治危機に陥り、統治能力を失ったキリスト教民主党のアンドレオッティ政権は崩壊。社会党スパドリーニ首班の内閣が誕生しました。
司法当局、警察などにも共産党や急進党などの左派のエリートが進出し、買収工作や脅迫をはねのけ、仲間の暗殺・襲撃にも屈せずに、果敢に古い利権構造と腐敗構造に挑戦し続けました。
とはいえ、左派が進出し影響力を広げたのは、権力の末端あるいは縁辺にすぎず、イタリアと教皇庁の「トップエリート」は危機の回避策をめぐらそうとしていました。
はからずも、創設期のイタリア共産党の指導者、アントニオ・グラムシが提起した「国家のヘゲモニー理論の」射程の限界がここで明白になりました。
つまり、支配階級の知的・道徳的優越性が失われてもなお、「強制力という鎧を身にまとったヘゲモニー(統治秩序内における全体的優位=支配)」は容易に崩れ去ることはない、ということが。
ともかく、この紛糾のなかで結果的にスケイプゴートになった者の1人は、ロベルト・カルヴィでした。
というよりも、彼がだれよりも目立つ違法行為をしていて、しかも一番無防備だったからでしょう。1981年6月20日、カルヴィは「外国への違法送金」(日本の外為法違反に相当)の容疑で逮捕されます。
マスコミは競ってこの疑獄をスキャンダラスに報道します。
形勢の悪化のなかで、カルヴィは若手経営コンサルタント兼フィクサーのフランシスコ・パツィエンツァを相談役に雇います。諜報機関や官憲の内部情報に通じているという触れ込みを信じたためです。
たしかに、アンブロジアーノをつうじて動いた闇資金のほとんどは、カルヴィ自身の書類上の決済を経て流れていました。「いけにえ」としてはうってつけです。
彼の逮捕後、P2をはじめ、すねに傷をもつ多くの有力者たちがカルヴィに沈黙ないし偽証、そして証拠の隠匿・隠滅を迫り、彼は追い詰められて自殺未遂を引き起こします。
7月20日、法廷はカルヴィほか3名に有罪を宣告。カルヴィは禁固4年と巨額の罰金を言い渡されます。
アンブロジアーノ銀行自体の株価は大暴落し、企業としての信用は大きく失墜しました。
第一審判決のあと保釈されたカルヴィは、IORのマルチンクスにアンブロジアーノ・グループの窮状を訴えて支援・援護射撃を懇願します。
結局、名目だけの実効性のない「後援状」――信用保証をあいまいに表明した書状――をマルチンクスはしたためます。
しかし、その後援状=信用保証状はもともと、南アメリカにあるアンブロジアーノの子会社に箔をつける飾りにすぎないものとして扱われていたのです。
マルチンクスの手元には、「この保証状は形式だけのもので、なんら具体的な請求権を認めるものではない」(つまり、IORによる債務の肩代わり引き受けはない)とカルヴィが自書した念書、「信用保証を無効にする対抗文書」が渡っていました。